Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.7.1

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大塩の乱関係論文集目次


「予の王学に入りし経路」

石崎東国 ( ? 〜1931)

『陽明学派の人物』 藍外堂書店 再版 1913 所収



 吾輩は此の陽明学の発刊に就て一ツ自分の陽明学に入つた経路を書て見やうと思ふ、浅劣な経路を語るは不遜の咎めを免れぬ次第ではあるが、併し人の学に志し道に入るといふ中には誰にも経路とか、動機とかいふものがある、それを正直に語り合ふときは随分利益になる者だ、吾輩には動機といふ程のものが無いから単に経路を語る、経路には余り面白いものはないに相違ない、併し是を露払いに語り合い話し行く中には必ず或るものには面白い且ツ有益なものが出やうと思ふ、又陽明学研究者の動機経路には必ずそれが無くてはならぬことヽ思ふ。

 吾輩の学問に志したのは九ツの秋でみる、初めて叔父の畠誠に就て習つたのが大学であつた、此頃の学校は教師が始終変り通しで学校は殆んど休業同様であつたので九ツまで遊んだ吾輩は此秋叔父に就て大学の素読を受けたのであつた、そして明る十歳の暮に初めて正則に学校の門を潜つた、丁度西南戦後四五年目して従軍の子弟が帰郷した頃であらふ、生徒の遊戯は頗る荒々しいものであつた、其頃学校では頻りに「西郷隆盛枕は入らぬ」といふ俗謡が流行したのを今でも覚へて居る、吾輩が十三頃小学修身書で中江藤樹先生を初めて知つた、今でも忘れぬ「天子より以て庶人に至るまで皆身を修むるを以て本と為す」といふに至つて十一歳の藤樹先生は涕泣し此書今にして存す聖人豈学んで至らざらんと、是より勉強して遂に聖人と仰がるヽに至つたとあつたとき、九歳素読で覚へて居た此句が巌粛に生て天頭の中に浸み込んだ、其続きに又蕃山了介が正直なる馬方の話に感発して中江藤樹を訪ねたといふ処に出会つた、近江聖人は愈忘れられぬ人物になつた、勿論当時陽明学者としてて云々といふやうな事は知らふ筈はないが只藤樹蕃山の名は慥かに少年の脳中に残つた、若し陽明学が文字の学でなく精神であるこすれば陽明の入門が此時にあつたといひ得ないでもない。

 それから十五歳尋常四年を卒へてから、其頃西南戦争より帰つた将校に所辺といふ人があつた、村人鬚先生と称した、此人に就て勉強をする弘道舘記述義、回天詩史、靖献遺言、曾子新論、此時代の村塾に用ゆる教科書である、そして其中に王陽明出身靖乱録があつた、予が王陽明なる偉人の閲歴を読んたのは元明史畧の外にこれが初めてだ、これが十七歳の時と覚へて居る、鬚先生は固より水戸学の人である、吾輩の土地は水戸城を北に那珂川を遡る五里山間僅かに野州に通ずる一路あるのみであるが、それでも対岸野口には弘道舘の分校時雍舘もあつて父などの青年時代は文武中々盛んなものであつたとのこと、筑波山尊攘軍の片破田中愿蔵も一時之に拠られたもの、水戸藩正奸の争ひには山中ながら随分革命家の出入されたものだ、我輩の十五六歳時代は暴風後の最も荒廃を感じた時であつたが大概学問といへば水戸学の余命を継承したものだ、コンナ士地であるから王陽明の出身靖乱録も水戸学を資する一部として読まれたものである、されば先生も陽明学でない、勿論吾輩どもに良知学も何も注意をせなんだが陽明の名は鬚先生に照会されたのであつた。

 十七八は水戸に居た、是れは安田定則といふ知事の計画で農業改良の為めに講習生を郡から選抜したのである、予も其選に当て講習生とななつた、少らくは弘道舘に出入して講義を聴たが傍ら維新の政変は多くこヽに研究した、藤田東潮は回天詩史以来の崇拝である如く種々読書に耽る中に其随筆から大阪に大塩平八郎なる人物が有て大なる働もあつたが謀叛をした、謀叛はしたが決して悪い事ではないといふ様なことを読だ、金領といふ魚の名も其時に覚へた、実はそれは我地方のキスてあるといふことも知つた、父からワシの小供の時大飢饉があつて大阪には大塩といふ与力が之を救ふ為めに市中を焼撃した丁度佐倉宗吾のやうな人だといつて聞かされたことは此随筆で一層確められた、是れが大塩の名を記した初めであるが、当時我輩には朱子学も何もなかつたが、不思議に小学時代に臆病にして沈黙であつた予は弘道舘時代より放胆にして冒険的性格に変化して来た。

 明治廿六年の秋には政治運動を初めた、陸奥外相の條約改正反対で例の尊王攘夷 から割り出した排外思想の猛烈なものだ、檄文を飛す、青年結党をする、遊説に出掛る、それが遂に条例違反で警察の干渉が甚しい為め遂に廿七年の春に消へたが、一時は大分地方を騒がした、それから遂に東京に逃げて来て二十二の時に東京で雪嶺先生の王陽明といふものを読んだ、それが吾輩の初て陽明学といふものヽ系統的哲学を見たと同時に近江聖人も蕃山も中斎も同学派の人であつたことを初めて知つたのであつた、幼稚なものではあるが正直である。

 当時吾輩は職を軍人に求むる考で勉強した、陽明の歴史からではない、鬚先生も軍人であつた、日清戦争もあつた、そして功名を取るは軍人にありと考へたものだ、所で士官学校の志願をした、其中柔術で左肩骨を折つたが、遂に止めざるを得なくなつて他の職を求めて又一、二年栗田塾へ入つて国史を修むることにしたが、考証学も身に浸まぬ、早稲田に入つた、政治経済科をヤツテ見た、それからは生活問題と勉強とで初めて見た陽明も続いて研究もせなんだ、併し吉本の陽明学といふものも出る、初めて陽明学は一部青年修養に用いられた、禅も流行して来たけれども予には神道といふ外に何等の信仰を必要と感じなかつた、勿論伝習録も輔仁舎で読んだが乱暴な吾輩を覊束するには尚ほ其師がなかつた、兄は評して彼は多少の学問せなんだならば博徒侠客の群に一生を終つたであらふと言はれた程であつた。

 廿六東京を去つて讃岐に来た、其昔水戸と高松は兄弟の間柄である、義公の兄の封せられた処、そして義公が夷斎の義に感じて兄の子を養つて封を襲かしめ典籍の欠くべからざるを見て日本史を編輯したなどの深い関係の有りしだけ、士人には其先東国の出のものが少くない為めに予の放胆なる性を憐れむ人も少くなかつた、同時に予の最初の水戸学は再び記憶を新たにした此間に東京には友人西川片山等の社会主義が生れたけれども予の志を移さなかつた、予は東京を出る前に東亜同文会の設立に与つた如く、東方問題及至支那問題の研究者の一人でありしやうに、功名茲にありと信じて居たものだ、それと同時に社会問題は予の頭にはトテモ入る余地がなかつたのである。

 若し強て思想の変遷といへば弘法大師の発祥地なりしだけ宗教といふものに多少接触を覚へたれども弘法大師の真言よりは日蓮の法華に帰依した、更に坊主よりは侠客にして詩人にして夫で勤王家たる日柳燕石を難有と信じた、其系統から予は又洗心洞剳記を読んだ、又高瀬学士の日本の陽明学も読んだが、恰かも北清拳匪の乱が起るに至つては又深くそんな宗旨を研究する暇がない、功名心は早く北清に飛で遂にその方ヘ赴いてしまつた。

 再び大阪へ来た、大阪と吾輩は決して調和の地ではないが大塩の事を為した地であることを忘れない、市中は明かに資本家と労働者と区画されて居る地である、予の思想は東方問題から漸次に社会問題に移て来た、併し水戸学と社会問題とはなほ幾分の距離がある、暫は之れが調和を試みた、そして社会問題は物質のみでは解ける者ではないと観した時宗教が浮んだ、宗致はまた高松にあつた時の日蓮が首を出した、恰かも第五回の博覧会が開設された大阪は新平民の本場なる所より同胞融和会なる新平民大会が催されるとき之れに頭を入れて種々力を添た、其結果新平民を研究して日蓮が新平民であつて宗教改革者となり大塩が新平民を援て挙兵を敢てしたことに思い付た。

 それが元で大塩と日蓮を研究した、陽明と日蓮との事業を見た、水戸学と陽明学の吻合を見た、会心の学問が初めて発見された、之を研究するに従つて愈光明、一点の不調和なる点がない、天地万物と一体なる良知の前には何物も徹底せざるものヽ無きことを発見した、同時に道義といふものヽ外に持て囃される功利なるものは日々予の脳裡から撃退されて来た、少なくも種々の習慣に囚はれて居た吾輩は真に独立の思想と自由の精神を回復した、従つて如何なる境遇にも不安なく如何なる職業にも満足を感ずるやうになつた、是れ偏に陽明学の御蔭とはねばならぬ。  茲年予は三十八了介先生蕃山に隠れた年に近い、此間半世功名に走て何等事功の遂げたるものが無きを耻づる次第ではあるが遅しと雖も而も此安心立命の地に到着したるを喜ぶものである、是れ予の陽明学に入つた経路である、得道はなほ前途を期すべきも幸ひに此の金的を見るを得たるを喜んで不遜ながらに此の径路を語り出したる次第である(六月十一日)


石崎東国


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