Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.3訂正/2003.1.14

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎

−太平天国の建設者大塩格之助−」

その5

石崎東国

『中央史壇 第2巻第5号』国史講習会 1921 所収


適宜改行、読点を加えています。


△扨ても太平天国建設者たる洪秀全の生れは、以上の如く広東花県の人といふだけで、何人も其素性を知るものがなく、長髪異容の風俗で、飄然憑雲山と売卜を以て今茲に流れ渡つた、彼の生れた嘉慶十七年は、我が文化九年で、大塩革命の時が丁度二十六に当て居る、されば格之助とは同年である、同年であるから同人だとは勿論言はれないが、飄然広東に売卜を以て流れ来つた長髪異容の浪人は、此の時代此地方に多数あるものではない、是れが天地会の亡命者と、東海の仙卿(郷?)から其の師と共に来たといふ伝説と綜合すると、時代人物、誠に大塩先生父子とするに適当であらねばならぬ。

△尤も支那書には、洪秀全は道光十六年には、既に広西潯州鵬化山に立籠つて賊を働て居たやうに書てあるが、不用意に且つ誇張的な支那の歴史家の伝へることは、当にならぬものが多い、鵬化山伝道は二十六年でなければならぬ、又洪秀全は決して賊は働かないのみならず、洪秀全には兄弟四人もあつて、皆賊のやうにして居るが、これも信じられない、ヤハリ鴉片戦争を避けて、福州方面より売卜を以て三人広東に漂着し、上帝会を乗取つたのが事実であらう、後に洪秀全は上帝会伝道の為めに謬死して、七日にして蘇つたといふのも、実は教主朱九濤か東海の偉人に説服されて、山を開け渡した、其の後に大塩先生が上帝会の教主と為つたのを、洪秀全の事にコヂ付けたのである。

△然らば大塩先生が、上帝会の教主として、耶蘇教を唱ひられたかといふと、必ずしもそうではない、上帝会は、道教を基礎として、之に耶蘇教を附け加へた位のもので、極めて浅薄なものであつたので、之を根拠あるものとすべく、周雲山が、大塩先生を迎へたのだ、大塩先生は、陽明学を奉じたものであるが、其の修養に至つては、道教に通じ、禅学に精しく、耶蘇教(切支丹)には最も精通した人であるから、其の教義の問答に於て、朱九濤に勝つたのは言ふまでもないが、それが為めに上帝会の教主たるべき望はなかつたに相違ない、併し時代人情全く変化したる此の場合に、教導すべき方法は道教であるか、経学であるか、宗教であるかを見た先生は、上帝会を全耶蘇教として伝道することを、格之助洪秀全及び周秀才(憑)雲山に許したと共に、其の教法を伝へたのは慥かであらう。

大塩先生の切支丹に通暁せることは、曾て水野軍記、豊田貢事件当時の研究に係ること勿論にして、大塩伝に、

又其の乱後、踪跡を晦ますや、世人は

△斯くの如く、大塩先生が耶蘇教に精通せるは言までもなく、洪秀全憑雲山の伝誦したるは、之を紹述したるものなるべく、尚茲に注意すべきは、従来支那に行はれたる耶蘇教は、道教の下に之を唱ひたるものにして、極めて雑駁、其の体を為さゞるものなりしも、上帝会の唱道したるものは、道教より独立して、又切支丹の如き妖術を用ゆるなく、純粋の宗教として教義を説き、耶蘇教伝道の形式を取りたるものは、上帝会を以て初めとした事で、斯くの如きもの、神儒仏三教に通じたものにあらざれば、到底為すべからざるものである、こヽらが又東海の偉人でなければ創説されぬことであつて、即ち大塩先生は、耶蘇教の邪教として害ありとするは、妖術を用ゆるからで、之を純粋の宗教として伝導せば、慥かに今日の支那文明を開発する に足ると信じて之を教授し、之を伝道さしたものであると、吾等は信ずるのである。

△尚ほ東海の偉人は、教主として其の後をどうしたかといふと、初めから教主たるべき望を有せざる大塩先生は、主義を伝へると同時に、教主を洪秀全に譲り、憑雲山をば後見として、主教の位地を辷つた、而して洪秀全憑雲山は、共に広西に赴いて、此の後まで大塩先生のみは郎山の居に残て、又宗致伝道に関係せなんだ、此は何で知るか、洪憑一たび去てから、史上伝説共に郎山は昔の風寞に帰て、問題に上らないからである、即ち先生は光風霽月何等の慾望なく、静かに経典に耽つた、郎山といふのは、洪秀全が生れたといふ花県 の北、従化県の南に、越秀山の山脈を分けて巌石塁々たる間に、渓水の流清く樹木茂り、西に武の二水を合した北江の大流を承けて山深く人里遠く、人跡稀なる山中一城廓の如き一構ひは、即ち上帝会の道場で、太平乱後、世人は賊寨と称したのであるが、東海の偉人大塩平八郎、仮りの名朱九濤の隠居所として、越王台趾と共に名高かつたものである、序に洪秀全の名は、「広州第一の偉観たる越秀山」の秀山より出て、広を洪に改め、秀山を秀全に代へたのであつたと言ふものがある。


「大塩平八郎」目次/その4/その6

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