Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.3訂正/2003.1.21

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎

−太平天国の建設者大塩格之助−」

その6

石崎東国

『中央史壇 第2巻第5号』国史講習会 1921.5 所収


適宜改行、読点を加えています。

△扱て大塩格之助洪秀全と、周秀才憑雲山は、所謂予言者は故郷に尊ばれずの格で、道光二十六年広西に向つて遂に桂平、武宣二県の分界たる鵬化山に入て茲に居を構ひ、専ら伝道に従事した、時に桂平の富豪曾王衍は甚だ之れに帰依して秀全を引て師と為し、子弟を訓蒙した、之れが洪秀全の勢力を得るの第一歩で、、次で此の人の紹介で武宣の蕭朝貴といふものゝ娘を娶つた、それからは愈々基礎を作て桂平の楊秀清、韋昌輝、貴県の泰日綱、石達開等先後附随するものが日に夥しくなつた。

格之助洪秀全は、如何に耶蘇教を説いたか、彼は天父を称して耶火華と曰ひ、耶蘇を称した長子と為し、秀全自ら次子と称した、耶火華は即ちヱホバ神を立てたのである、

日本に於ける切支丹では、ゼンス、マル、ハライソと唱ひてゼンス即ち耶蘇を立て、マル即ち聖母マリアを並べ、ハライソ即ちバラダイス極楽として伝誦したのであるが、耶火華即ちイホバの神を直ちに上帝と拝し、パラダイスを直ちに天国に取て主唱したことは、如何に教法の正肯を得て居たかも分ると共に、上帝会に於ける教義が正しかつたかが分るであらう、秀全は一且謬死して七日目に蘇たやうに歴史に書てあるが、耶蘇を長子として神でなく人と為し、自分自ら次子と称するに斯る詭術を用ゆる筈がない、全く東海の偉人の朱九濤に代つた時代の訛伝に外ならぬ、而して男信徒を兄弟といひ、女信徒を姉妹といひ、長幼尊卑の別を用ゐない如きは到底後人の思付かれないことである、

教義を述べたものに真言宝詰の一本を聖書として信者に持たせた、信者の中に人才を勝つて四十兄弟と称し、此を使徒として各道に伝道を試みるに至つて、最早や旭日冲天と成つた、其の教法に於て、組織に於て、かゝる巧妙なることは、何等かの経験に持たずして出来るものでない、是れが我が天草以来の経験と水野軍記の故智を参酌して、初めて茲に実行されたものといふに、多くの不思議は無いではないか。

△此の時に当て清国政府は極めて多事であつた、道光二十三年我天保十三年、英国と城下の盟を為してから戦後の疲弊も少なくない処へ、二十四年には亜米利加が来る、次いて仏蘭西が来る、何れも広東に軍船を碇泊させての通商談判を強要する、所謂一夷懐柔して一夷復た至るの有様である、国政は日に紊れ、紀綱振はず、内難外患並び起るの状は、実に清朝の末路を思はしめるばかりである、

然るに二十七年に至つては、粤西地方一帯の大飢饉を見るに及び、盗賊所在に蜂起して人民は安き心も無き有様であつた、此の大飢饉は此の一年では止まない、

廿八年には江淮海の大洪水となつて、沿岸一帯の水害は民家の流出されたもの一万余戸、田園には一茎の稼収なき惨状であつた、其上に時疫の大流行を見るに至つたが、飢饉は遂に三十年まで四年間に亘つた、

而して此間政府は何等救済の方法を講ぜざるより餓途に横り、老幼は溝壑に転じ、壮者は盗賊と化して、今や粤西一帯は群賊横行の姿であるが、守令も之を如何ともすることができない、丸で無政府状態である、是に至て恰かも我が天保六七八年の飢饉を想見せずに居られないのである

△此の状態を見た格之助洪秀全は、非常に慨嘆して、早速四方に派遣して居た四十兄弟の使徒を鵬化山下は潯陽金田村に会して、之れが救済方法に就て協議をした、仍で同志も勧誘し、又自ら積める資財を抛て之れが救済に着手した、此を聴て郷里の農氓の施行を受けんとて集まる者幾百千人の多きに及んで、喧騒すること甚だしい、

之を見た邑紳等は、是れ畢竟党を集めて劫剽を企てるに相違ないといふので、之を潯州府知事に訴ひ出た、潯州府では時節柄容易ならぬことであるとて、知府顧元凱といふものが兵を具して出張し、先づ故と金田の保全村長で今洪秀全の信者なる韋昌輝といふものを捕へて獄に投じ、其の余の会衆には、兵力を以て解散せしめやうとした、

こうなると我が党たるもの亦黙して居られない、先づ第一会衆が承知しない、官では自ら救済せんとはせず、民間で救済しやうといふものを乱民と目するは暴政であるといふので、会衆は鑼を鳴らし火を放つて知府を逆襲したのは、止むを得ない出来事といはねばならぬ。


「大塩平八郎」目次/その5/その7

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