Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.9.17

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩後素」

市島春城(1860−1944)

『文人墨客を語る』 翰墨同好会・南有書院 所収  1935

◇禁転載◇

大塩後素 矢部の大塩論

管理人註
  

 大御所と謂はれた、徳川家斉将軍の悪政が、大塩事件のごとき騒動を生 んだのは不思議はない。此事件あつて後、三十年にして、徳川幕府は終に 滅びたのである。大塩は、俗称平八郎、名を後素、中斎、又洗心洞主人と 号した。陽明学者で、文芸にも通じ、頼山陽の如きは、深く交はつて之を 畏敬した。彼れは大阪に東組与力を勤め、後隠退したが、所謂大塩事件な るものは、隠退後のことである。彼れは此の事件のため、叛逆を以て罪を 論ぜられたが、大阪の士民は、騒動後も尚大塩先生と云うて畏敬したこと を思ふと、彼れが人物の程も想像される。  藤田東湖は、当時名奉行と聞えた矢部駿州(定謙)に就いて大塩の事を 聞き、其の随筆に書いて居るが、それによると、矢部は大塩を傑出の人物 となし、彼れが如き暴挙も、畢竟、憤慨の余りに出でたものであらうと云 うて居る。  今、矢部の語る所を、爰に掲げて見よう。元来、平八郎は、癇癪持であ つた。しかし、なかなかの人物で、其の与力勤務中、豪商を挫き、細民を 救ひ、奸僧を懲し、邪教を吟味する等、天晴の吏と謂ふべきである。学問 も有用の学を修め、尋常学者の及ぶ所でない。自分の奉行奉職中は、度々 書斎に招き、密事を相談したが、言語容貌決して尋常人でない。彼れを目 して叛逆と云ふは、決して当らぬ。彼れ実に叛逆を謀らんには、いかで大 阪城に立籠らぬことのあるべき。大塩は、平生大阪城の固めの甚だ手薄な ることを憂へて居つたものである。自分は嘗て平八郎を招き、食事を共に したことがある。其時、膳部に金頭と云ふ魚の大きな焼物が附けてあつた。 大塩、憂国の談に及ぶと、忠憤の余り、怒髪、冠を衝くの有様で、如何に も興奮が甚だしいのを、自分いろ/\慰め諭したが、平八郎益々激発して、 金頭を、首より尾に至るまで、わり/\と噛砕いて食ひ尽した。自分の家 の者は、之を目して狂人の所為だとして、翌日、自分に、彼れを近づくる 勿れと云うた位だが、彼れの持前の癇癪が激発したので、狂人でもなく、 寧ろ彼れが忠誠の発露とも見るべきものであるから、自分は、其後も不相 変交はつた。さて何故斯る暴挙に出でたかと云ふに、普通の人情として、 再三反覆して忠告なり諫言なりをする、それがどうあつても聴かれない時 に、ともすると之を憤り、座に有り合ふ火鉢などを、其人に投付けたりす ることがある。穏かに諫むるのが忠で、手を出すに及んでは暴となる。平 八郎も、数回の忠告が用ゐられず、終に暴となつたのだ。併し、暴は暴だ が、之を叛逆とするは如何のものか。平八郎は自焚したが、所謂死人に口 無しである。些しも訊問を為さず、直ちに叛逆罪を以て問ふは、裁判の法 でない。自分は、当時、不敬罪を以て処するが然るべきだと建議したが、 自分を以て、犯人を曲庇するものだと譏るものもあつたと、矢部は言うて 居る。矢部は、其平八郎が、子の婦にせんと養つた女に姦通したと云ふ事 実を、平八郎の罪状の一に数へて居る事に言ひ及び、それは、下女に置い た者を己が妾にしたまでで、何の仔細もないことだと云うてゐる。 矢部 は、大塩乱の前年、大阪西町奉行の職を退き、勘定奉行に転じたが、其年、 大阪東町奉行大久保讃岐守の後任に来た跡部山城守が、何か心得となるべ きこともあらば、教へられたいと矢部に請うた時、矢部は、与力の隠居に 平八郎なるものがゐる。非常の人物であるが、悍馬の如きもので、よく御 すれば用を為すが、御し方を誤れば危険であると語り、其他は何も言はな かつた。跡部は之を聴き、矢部ほどのものが、一与力の隠居を目の上に上 げて居るなどは不似合だと嘲つた。然るに、何ぞ図らん、其翌年、青天の 霹靂、大塩の暴発を見るにんで、跡部も始めて矢部の言に服したと云ふ。  大塩の為人に就いては、兎角の論が多いが、矢部は、恐らく尤も大塩を 知るものであらう。

曲庇
(きょくひ)
事実を偽った
り法律を曲げ
たりして、人
をかばうこと





















(およ)んで



為人
(ひととなり)


 


 『芸苑一夕話 下』早稲田大学出版部 1922 所収 の「大塩後素」とほぼ同じ。


「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ