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大御所と謂はれた、徳川家斉将軍の悪政が、大塩事件のごとき騒動を生
んだのは不思議はない。此事件あつて後、三十年にして、徳川幕府は終に
滅びたのである。大塩は、俗称平八郎、名を後素、中斎、又洗心洞主人と
号した。陽明学者で、文芸にも通じ、頼山陽の如きは、深く交はつて之を
畏敬した。彼れは大阪に東組与力を勤め、後隠退したが、所謂大塩事件な
るものは、隠退後のことである。彼れは此の事件のため、叛逆を以て罪を
論ぜられたが、大阪の士民は、騒動後も尚大塩先生と云うて畏敬したこと
を思ふと、彼れが人物の程も想像される。
藤田東湖は、当時名奉行と聞えた矢部駿州(定謙)に就いて大塩の事を
聞き、其の随筆に書いて居るが、それによると、矢部は大塩を傑出の人物
となし、彼れが如き暴挙も、畢竟、憤慨の余りに出でたものであらうと云
うて居る。
今、矢部の語る所を、爰に掲げて見よう。元来、平八郎は、癇癪持であ
つた。しかし、なかなかの人物で、其の与力勤務中、豪商を挫き、細民を
救ひ、奸僧を懲し、邪教を吟味する等、天晴の吏と謂ふべきである。学問
も有用の学を修め、尋常学者の及ぶ所でない。自分の奉行奉職中は、度々
書斎に招き、密事を相談したが、言語容貌決して尋常人でない。彼れを目
して叛逆と云ふは、決して当らぬ。彼れ実に叛逆を謀らんには、いかで大
阪城に立籠らぬことのあるべき。大塩は、平生大阪城の固めの甚だ手薄な
ることを憂へて居つたものである。自分は嘗て平八郎を招き、食事を共に
したことがある。其時、膳部に金頭と云ふ魚の大きな焼物が附けてあつた。
大塩、憂国の談に及ぶと、忠憤の余り、怒髪、冠を衝くの有様で、如何に
も興奮が甚だしいのを、自分いろ/\慰め諭したが、平八郎益々激発して、
金頭を、首より尾に至るまで、わり/\と噛砕いて食ひ尽した。自分の家
の者は、之を目して狂人の所為だとして、翌日、自分に、彼れを近づくる
勿れと云うた位だが、彼れの持前の癇癪が激発したので、狂人でもなく、
寧ろ彼れが忠誠の発露とも見るべきものであるから、自分は、其後も不相
変交はつた。さて何故斯る暴挙に出でたかと云ふに、普通の人情として、
再三反覆して忠告なり諫言なりをする、それがどうあつても聴かれない時
に、ともすると之を憤り、座に有り合ふ火鉢などを、其人に投付けたりす
ることがある。穏かに諫むるのが忠で、手を出すに及んでは暴となる。平
八郎も、数回の忠告が用ゐられず、終に暴となつたのだ。併し、暴は暴だ
が、之を叛逆とするは如何のものか。平八郎は自焚したが、所謂死人に口
無しである。些しも訊問を為さず、直ちに叛逆罪を以て問ふは、裁判の法
でない。自分は、当時、不敬罪を以て処するが然るべきだと建議したが、
自分を以て、犯人を曲庇するものだと譏るものもあつたと、矢部は言うて
居る。矢部は、其平八郎が、子の婦にせんと養つた女に姦通したと云ふ事
実を、平八郎の罪状の一に数へて居る事に言ひ及び、それは、下女に置い
た者を己が妾にしたまでで、何の仔細もないことだと云うてゐる。 矢部
は、大塩乱の前年、大阪西町奉行の職を退き、勘定奉行に転じたが、其年、
大阪東町奉行大久保讃岐守の後任に来た跡部山城守が、何か心得となるべ
きこともあらば、教へられたいと矢部に請うた時、矢部は、与力の隠居に
平八郎なるものがゐる。非常の人物であるが、悍馬の如きもので、よく御
すれば用を為すが、御し方を誤れば危険であると語り、其他は何も言はな
かつた。跡部は之を聴き、矢部ほどのものが、一与力の隠居を目の上に上
げて居るなどは不似合だと嘲つた。然るに、何ぞ図らん、其翌年、青天の
霹靂、大塩の暴発を見るに んで、跡部も始めて矢部の言に服したと云ふ。
大塩の為人に就いては、兎角の論が多いが、矢部は、恐らく尤も大塩を
知るものであらう。
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曲庇
(きょくひ)
事実を偽った
り法律を曲げ
たりして、人
をかばうこと
(およ)んで
為人
(ひととなり)
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