Я[大塩の乱 資料館]Я
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「大 塩 平 八 郎 と 重 蔵」

伊藤痴遊 (仁太郎 1867-1938)

伊藤痴遊全集 11
平凡社 1929 より

(一)

高島から、小樽湾を横断して、石狩ヘ、はいつたことが、非常な冒険であつて、普通の人には、容易に為し得ることでない。

さらに、石狩川を遡上つて、空知の方面へ出よう、としたことは、一層の冒険であつた。

果然、この川昇りは、終に失敗してしまつた。幸ひにして、シヤラセン一族のものに救はれてから一命は完うしたが、どこまでも剛気な重蔵は、これから宗谷まで、海岸を沿ふて行かうとするのであつた。

殊に、寒さに向つての企ては、あまりに、乱暴であつた。暑い時に出かけたものが、急いで引上げて来る、といふ時分に、その寒さに向かつて行くのであるから、シヤラセン等が、詞を尽して、引留めようとしたのは、決して臆病からでもなければ、また無理でも、なかつた。けれども一たん思ひ立つたことは、突当るまで、やつて退けるのが、重蔵の気性であるから、至難(むづか)しいと聞いては、尚更ら止めることはしない。

従いてゆく、平太夫も、亦一廉の男であるから、重蔵のいふが儘に、同行するのであつた。

増毛、留萌、苫前、稚内を経て、いよいよ宗谷へ着いたのは、約一ケ月も、要(かか)つて居る。

途中は、風雪の艱(なや)みを凌ぎ、猛獣の襲来に、いくたびか危きことがあり、何分にも、雪の深いには、非常に苦しんだ。

食物や寝起にも、頗る弱つたのであるが、どこの部落へ行つても、土人の歓待はうけた。これが、此行を扶けた。唯一のものであつて、純真な土人の心には、重蔵も、少からず喜んだ。

『宗谷は、北見の最北端にして、又、実に蝦夷の北端たり。
東北西の三面は、海をめぐらし、南は枝幸郡、及び天塩国天塩郡に接す。東西十五里、南北十四里、面積八十八方里、宗谷支庁の所轄にして、庁治は、稚内に在り、宗谷濃沙布の二岬突出して、一大湾を擁し、宗谷の岬は、樺太近藤岬と相対峙して、険峡を成し、其距離十三里に迫る。郡の中央に、多少の丘陵あるも、波状の起伏にすぎず、南東部最も平坦にして、芦原茅原多し、道路は、海に沿ひ、概ね平坦なれど、宗谷より東六里の間は、処々断崖を成し、暴浪の日は、人馬の往来を絶つ』

と、最近の地誌には、書いてある。

 今では、宗谷、稚内を中心として、一郡を成し、どちらも、一小市街をつくつて、樺太へ渡るには、要衝の地になつて居るが、今から百年前の当時、内地の人は、どこへ行つても、多く其姿を見せず、全く交通の便は、なかつたのであるから、その困難は、歩くにしても、留まるにしても、非常な事であつたのは、改めていふ迄もなからう。

幾多の困難を凌ひで、宗谷に着いた重蔵が、もう一歩、ふみ出して、対岸の樺太へ渡らう、と考へて居たのだからその大胆には、驚くの外はない。

雪の晴れ間には、海岸の岬角(かど)に立つて、遥に対岩を睨んでは、太い息を洩らして居たのだ。

風は強く、浪は荒て、とても渡海の望みは、絶え果てた。雪は、霽(は)れることがあつても、風は強い。風の止んだ時は雪が降る。風雪共に到る時は、真に咫尺(しせき)を弁じ得ぬほどであるから、いかに奮発しても、これ丈けは、重蔵の自由(まゝ)にならなかつた。

『正木ツ』
『ハイ』
『もう断念(あきら)めた』
『駄目ですか』
『第一に、船がない。仮に船はあつても、この風浪は凌げぬ。残念ながら、引上げる事にに、いたさう』
『・・・・・・』
『拙者も、今迄は、凡そ天下の事として、成し能はぬ事はない、と考へて居たが、これ丈けは、いかんともいたし難い、と断念(あきらめ)がついた』
『それでは、引上げの支度に、かゝりませう』
『うむ、どうか、さうしてくれ』
『承知いたしました』

五人のアイヌを雇つて、食料品を荷はせ、道案内として、連れて行く事にした。降る雪に、道を絶たれて、殆んど方角も、判らぬほどであるから、土地のアイヌを、頼む外はなかつた。

行く時に比ベて、帰る時の方が、却て苦しんだ、といふのは、無理もないことである。

福山へ着いて、ほツと一息した。

重蔵は、一人で帰るつもりで居たが、例の平太夫が、ぜひ連れて行つてくれ、といふので、伴れて帰る事にした。

(二)

上司が、下僚に対しては、一視同仁でなければならぬ。いかなる、場合にも、依估偏頗の沙汰など、決して為す可きものでない。けれども実際に於ては、何時(いつ)の世にも、それが行はれて居るのだから、実に嘆かはしい、次第である。

武家といふ階級が、町人百姓に対して、非常な権力を有(も)つて居た上に、役人といふ役人は、すべて、武家の占有するところとなつて居たから、その威張り方は、非常なものであつた。

武家であり、且役人である、といふことが彼等の間に、どれほど、幅の利いたものか、それは想像も及ばぬ。

今でいふところの官尊民卑、その風習は、未だ容易に除かれず、国民の代表者たる、議員の席にあるものでさへ、役人になりたがることは、ますますひどくなつて来た。

大臣は格別として、その以下の役人に、なつた議員が、閣下といはれて喜んで居ると、いつた、情ない状態は、何時の世になつたら、無くなるであらうか。

莫迦な国民は、閣下といふて、左様した人に近付くのを、無上の光栄と、心得て居るものも、少なからず在るほどだ。

この陋習は、武家政治の名残であつて、まことに見苦しい事であり、ひどい弊害が、之れに伴ふて居ることに、はやく気付いて欲しい、と、常に思つて居るが、ナカナカ其夢は、覚めさうに思へぬ。

幕末の太平に、武家の人々が、役人になることを楽しんだのも一つの時代相、と、観て可からう。役人になれば、その肩書に依つて、無役の武家に対して、非常に威張れる、といつたことが、今の官尊民卑の風を、助長させた本源である。

同じ役人のうちでも、上司と下僚、之が亦甚だしく、隔たりのあつたもので、上級の役人は、大した権力を、下級の役人に対して、有(も)つて居たものだ。

それであるから、上司の御機嫌に触れたら、下級の役人は、すぐ叩き落されてしまふ。

松平信濃守は、よく下僚を憐んで、親切に世話をした、人であつた。

近藤重蔵が、上司に対して、無遠慮に、自説を固執するので、誰れも、快よく思つて居なかつたが、独り、信濃守のみは、重蔵の為人(ひととなり)を、よく知つて居て、之を上手に使つたから、狷介にして不屈の重蔵も、此人に丈けは、極めて柔順であつた。

重蔵が、無事に帰つたと聞いて、信濃守は、すぐに呼んで、北辺探検の事情をくはしく尋ねた。

聞く事毎に、信濃守は感心して、

『足下(おてまえ)なれば、こそぢゃ』

と、いつて、しきりに推賞した。

重蔵は、膝を進めて、

『就きましては、些と御願ひの次第が御座ります』
『何事ぢや』
『只今、申上げました正木平太夫、このたび同道いたしましたについては、酒井侯の領内を、騒がした罪のあります為めに、必ず厳しい御咎めも御座りませうが、この儀につきましては、貴下の御手加減にて、いかやうにも相成る事と存じますが、同人を救ふて、公儀の御用に立てる工夫は、御座りますまいか』
『よし、その儀については、拙者が、よく呑込んで置く』
『ハハツ、有難き御詞、厚く御礼申述ベまする』
『本人に一度逢ふて見たいが、そのうちに、機会を見て、同道いたして貰ひ度い』
『御沙汰を待ちまして、何時にても同道いたしませう』

此事についても、信濃守は、重蔵の義気に感心した。自分が、それ丈けの事をして、帰つて来たのに対しては、別に誇る容子も無く、その功を犠牲にしても、平太夫を、救つてやらう、といふ心は、見上げたものだ、と、思つたから、たやすく平太夫の一身を、引受けたのであつた。

数日の後、平太夫は、信濃守の役宅へ引取られて秘書の役を勤めるやうになつた。平太夫の喜びは、固よりいふ迄もない、重蔵の恩義に対しては、深く感銘して、弟の平次郎を、殺された怨みなど、寸豪も、考えて居なかつた。所が、茲に意外の事は、重蔵が、俄に書物奉行に、転任された事である。
重蔵の心では、さらに年を越えて、宗谷の海峡を渡り、樺太へ乗込んで、多年の志を成すつもりであつた。 然るに、書物奉行になつたのではその望みは、絶えた訳である。

今でも、図書館長になる人は、覇気の無い、功名心を捨てたものでなければ、絶対になり得るものでなく、何か行(や)つて見たい、といふやうな人は決して喜んで就く可き、役ではない。

重蔵の不平は、実に非常なものであつた。信濃守の斡旋も甲斐なく、上司の憎むところとなつて、敬遠されたのである、と、いふことが判つたから、いよいよ不快に思つて、勤めも怠り勝であつた。間もなく、大阪の弓奉行に、転任を命ぜられた。

於此(ここにおいて)、重蔵の不平はいよいよ爆発して、容易に受ける容子の無かつたのを、信濃守が、しきりに宥めて、とに角、大阪へ出発させる事にした。

(三)

文政二年の春、重蔵は、満腔の不平を抑へて、大阪に赴任した。

蝦夷や樺太に、深い考へを有つて、大いに為すところあらん、とした場合に、大阪の弓奉行とは、いかにも、意外の感があつて、重蔵の気性としては、容易に之れを受けなかつたのは、当然である。

けれども、自分を、よく知つて居る、松平信濃守の慰諭もあり、旁、他日の復帰を夢みて、厭々ながら赴任したにすぎなかつた。

 されば、役所へこそ出ても、ほんの出る、といふ丈けのことで、多くは、自邸へ引籠つて、読書三昧に、日を送つて居たのである。

当時、大阪には、一人の怪物が居て、重蔵の赴任を心ひそかに待つて居た。それが、例の大塩平八郎であつた。

平八郎の出生には、種々の説はあるが、広く伝へられて居るのは、阿波国美馬郡岩倉村字新町、といふことになつて居るが、石崎東国の大塩伝には、天満川崎の四軒町に生る、とあつて、この方が正しい、と思ふ。

父は、平八郎敬高と称して、家は、天満与力を世襲的に、勤めて居た。禄は、二百石三十俵を得て居たから、左迄に貧しい方ではなかつた。

幼名は、文之助と謂ふて、東町奉行詰所へ、与力の見習ひとして、出るやうになつたのは、文化三年のことで十四歳の時であつた。

七歳の時、父を亡(うしな)ひ、平八郎の名を亜(つ)ぐ。その翌年に、母を亡ふて、家庭的には、甚だ恵まれぬ人であつた。

篠崎応道の門に入つて、句読をはじめたのが、父を亡ふた歳からで、十二三歳の時には、既に四書五経はいふ迄もなく、経史の大体に通じた、といふから、よほどの秀才であつたに、違ひない。応道は、小竹の父である。

一日(あるひ)、篠崎の塾から、帰つて来ると、天満橋の畔に、多くの子供が、遊んで居るのを見て、その中へ飛び込み、しきりに遊び戯れて居たが、折しも、附近に出火があつて、代官の篠山十兵衛が、部下を率ゐて、火元見の為め、駈けつけて来た。

篠山は、馬上で声をかけ乍ら、橋へかゝった時、多くの子供が遊び戯れて居るのを見て、

『子供は危ない、退け退け』

と、いつて、声を限りに叫んだ。

子供等は、之に驚いて、みな逃げ出したが、唯だ一人、どうしても動かずに、馬上の代官を見て、ニコニコ笑つて居るから、部下のものは、その傍へ寄って、

『これツ、何故退かぬか』

と、いひつゝ抱き上げて、橋の袂に持ち出した。その隙に、代官の一列は火事場へ急行した。

抱き寄せられた子供は、平八郎であつた。

火事は、大した事にもならず、僅かに十数軒で焼留まつたから、代官は、役所へ引揚げよう、として、天満橋へかかると、不意に横合から長い竿を突出して、前列の部下が、高く掲げて居る、提灯を、叩いた奴があつたので、はツと思ふ間もなく、提灯は、大地へ落ちた。

『不埒なツ、引ツ捉へろ』

と、代官は、大きな声で下知した。

部下のものは、バラバラとかけ出す。向ふの闇いところを、非常な早足で、駈けてゆく子供があつた。

子供の逃足はやく、終に捉へ得ず、代官の一列は、とに角、役所へ引揚げて来たが、『苟(いやしく)も代官の提灯を、打ち落すとは、怪しからぬ奴だ。草を出(わ)けても、捜し出せ』と、いふことになつた。

その子供が、平八郎であることは、すぐ判つた。代官は、烈火の如く、怒つて居るのだが、普通の子供と違つて、天満与力の子供とあつては、みだりに、手を附けられぬので、その親元ヘ、一応は掛合ふことになつた。

両親を、亡ふた平八郎は、祖父政之丞の手に、育てられて居た。

『平八ツ、ちよいと、来なさい』

『ハイ』

『お前は、お祖父さまに嘘は、いふまいな』

『ハイ』

『お代官の提灯ヘ、無礼を加へたことがあるか、どうぢや』

『………』

『左様いふことを、した覚えはないか、若し、あつたとすれぱ、一大事ぢや。よく考へて、返事をしなさい』

『覚えが、あります』

『お前が、提灯を打ち落したのか」

『左様です』

『何故、そんな事を、したのか』

『代官の下役が、わたしを、抱き上げて、道側(みちばた)へ片寄せたから、その仕返しを、してやつたのです。』

『えツ、仕返しを………』

『ハイ』

之には、政之丞も驚いた。

『と、と、とんでもないことを、したのう」

『悪いのですか』

『…………』

『その上に、お前は、逃げたといふでは、ないか」

『…………』

『悪いと思はぬものならば、何故逃げたか』

平八郎は、ぢツと、考へ込んで居る。

(四)

『どうも、致方がないから、わしは、これから謝罪(わび)にゆくが、代官の方で、謝罪を肯容(きゝい)れぬ時は、お前を、引渡す事に、ならう』

と、政之丞は、力無げにいふた。

『提灯を打落したのは、そんなに、悪い事なのですか』

『悪い』

『何故ですか』

『代官の提灯ばかりではない。すべて御用提灯に、無礼を加へれば、その罪は重いのぢや』

『それだから、謝罪(あやまる)のですか』

『左様ぢや』

『謝罪つてもいけない、といふたら、どうなるのです』

『お前の身柄を、引渡すことにならう』

『引渡されると、どうなるのですか』

『斬られるかも、知れぬ』

『お祖父さま』

『何ぢや』

『謝罪のは、お止(よし)なさいよ』

『謝罪のは止せ、といふのか』

『ハイ』

『どう為る、つもりか』

『斬られた方が、いゝでせう』

『斬られる気か』

『ハイ』

『それほどに、謝罪のは厭か』

『ハイ』

 政之丞は、頗(すこぶ)る困つた。

 けれども、悪い気はしなかつた。いかにも、武士(さむらひ)の子らしい、キビキビした気性を、斯うはツきりと出されては、叱言を、いふこともならぬ。

『よし。それでは、是れから行つて来る』

『どこヘ、行くのですか』

『代官屋敷へ行くのぢや』

『謝罪に、行くのですか』

『左様ではない』

『左様でなければ、何しに行くのですか』

『掛合に、行くのぢや』

『それならば、行かないでもいゝでせう』

『掛合に行くには及ばぬ、といふのか』

『ハイ』

『何故か』

『向ふから来るのを待つて居て、掛合つたらいゝぢやありませぬか』

『ふふ−む』

どこまでも大胆で、少しも子供らしくない。政之丞は、少し恐ろしくなつて来た。

掛合に行くのだ、といつて居ても、実に謝罪に行くのである。平八郎の勢ひが、あまり強いので、謝罪に行くとはいひかねて、掛合に行くのだ、といつてしまつたのだ。

先方から来るのを待つて、談判に応じようと、いふて、平八郎は、飽迄も頑張るつもりに、違ひない。斯うなると政之丞は、年甲斐もなく、孫に引ずられて、ツイその気に、なつてしまつた。

代官からは、厳しい掛合あつた。

『御用提灯を打落した、平八郎は、御引渡しいたしても可いが、幼ない子供に、御用提灯を打落されたとなつては代官といふ御役目に対して、篠山氏の面目は立つまい、と思ふ。平八郎のいふところに依れば、長い竿を持つて、遊んで居たはづみに、提灯へ竿の先が触れたのである、と申して居りますが、左様ではないのでせうか』

と、政之丞の答弁は、頗る巧いものであつた。

 斯ういふ風に出られては、代官の方でも、甚だ困つた。よく考えて見れば、政之丞のいふ通り、代官が出役中に、御用提灯を子供に打落された、となれば、自分の責任にもなる。何しろ、対手(あいて)が、十歳未満の子供丈けに、始末が悪かつた。

此の事件は、代官の方で、終に泣寝入にしてしまつた。

平八郎の幼児には、これに類したことが、いくらもあつて、政之丞は、平八郎の生長を楽しみ、将来に嘱望して居たのである。

与力見習に出た時分から、武芸の必要を感じて、柴田勘兵衛の門に入つた。此人は、佐分利流の槍術の達人であって、人物も、非常にすぐれて居た。

平八郎が、本格の与力になつて、別に、私塾を開いた時分には、さかんに槍術を伝へて、関西第一の名声を博したのは、柴田の仕込であつた。

西宮勤番中に、平八郎が、宝蔵院流の師範を、して居るものと、試合をして打勝つたので、それを柴田に報告すると、却て柴田は、平八郎を戒めて『妄りに技を誇るやうでは、お前の将来も、もう行留りである』と、いふてよこした。

之に対して、平八郎が、詫書を送つて居る。それからは努めて、腕を揮はず、深く慎で居た。といふ事である。      

(五)

江戸の町奉行は、南北に分れて居たが、大阪の町奉行は、東西に設けられてあつた。

奉行下の与力は、三十騎に限られて、部下の同心は、五十人となつて居た。奉行は、幕府の命に依つて、交代する事に、なつて居たが、与力と同心は、居付といふことになつて居て、御抱へ席であつた。

表面は、一代限りになつて居て、伜が跡をつぐと、親は、願の通り御暇下さると、いふことになり、伜は、番代申付ける、といふ達しをうけて、職に就くのであるから、御譜代席とは、その点に於て、格式が違つて居た。

与力は、五百坪の屋敷地を与へられ、同心は二百坪であつた。天満及び川崎に、その屋敷はあつたのだが、一般に天満与力と呼んで居た。

大塩の屋敷は、天満橋筋長柄町を、東へ入つて、角から二軒目の南側で、四軒屋敷の一つであつた。

与力の長男は、十五歳になると、御番方見習といつて、役所へ詰める事に、なつて居た。それから先は、本人の働き次第で、相当に役をつけられるのが、例になつて居た。平八郎が、十四歳から詰めた、といふのは、規則の上からであつたが、それにしても、秀才であつたことは、動かし難い。

十五歳と十四歳では、一つ違ふが、その頃の人の歳は、一つや二つ、時と場合に依つて違ふのであるから、何の不思議もない。

在職は、十三年の長きに渉つて居るが、重い役付には、ならなかつた。寺社役、川役、地方役といふのが、奉行附の三役であつたけれど、それにさヘ、なれなかつた。

在職中の功績としては、第一が、耶蘇退治を、やつた事である。第二が、役人の奸曲を暴いて、懲した事である。第三が生臭坊主処分の事であつた。

当時の奉行は、高井山城守といふ人で、よく平八郎の気性を呑込み、充分に、其腕を揮はせたので、平八郎も、山城守の知遇に感じて、一身の栄達など、少しも考へず、思ふさま、遣つて退けた。

その遣口は、頗る峻烈を極めたので、奸曲の輩は、縮み上つて、市井の無頼漢は勿論、不正の役人までが、平八郎を恐れて、何事も控目になつたから、良民の喜びは、非常なものであつた。

自分は、東の町奉行に、仕へて居るにも不拘(かゝはらず)、西の町奉行に属する、与力の弓削新右衛門の私曲を訐(あば)いて、終に詰腹を切らせた上、その手下になつて、悪事を働いた、天満の作兵衛、鳶田の久右衛門、千日の吉五郎、新町の八百新等を悉く処分してしまった。

新右衛門は、与力中の古参で、その勢力は、遥に奉行の上に在り、何人も、手を付け得なかつた、ほどであるのを、支配違ひの平八郎が、手を入れて、悪い奴等を、一掃し去つたのは、流石であつた。

頼山陽はも平八郎の為めに、当時の事を叙して、

『尹、心之を知る。而も主客、勢懸てゝ苟(くゆ)傍観し、吏良ありと雖、衆寡敵せずして、浮沈容(かたち)を取る而已』

『子起の初めて密命を受くるや、自ら度るに、事済らば国を補ひ、済らずんば家を破らん。家に一妾あり。之れを出して、累無からしめ、然る後、籌を運(めぐら)し、策を決し、親信を指顧し、発摘意外に出ず、其封豕(とん)長蛇たる者を斃し、首(こうべ)を駢(なら)べて、戮に就き、内外股栗す』

と、斯う書いてある位だ。

併し、平八郎が、それ迄に、腕を揮つたのも、畢竟は、山城守が居たからで、普通の奉行には、平八郎を使ひ得ないし、また平八郎も、山城守の知遇に感じたればこそ、偉大な功績を、挙げたのであつた。

『職は、即ち微賤にして、而も言聴かれ計行はる。大政に関り、衙蠹(がたう)を除き、民害を鋤き、僧風を規(ただ)す。豈千載の一遇に非ずや』

と、平八郎も、いつて居る位だ。

天保元年七月、山城守は、職を罷めて、江戸へ帰つた。それと同時に、平八郎も、職を退いて、隠居して居る。家督は、養子の格之助が、襲ぐ事になつた。

是れは、その際に詠んだ、詩である。

■■の字

当時、平八郎の齢、未だ四十歳を越えず、盛名隆々たる時の辞職であるから、種々の批評もあつたが、例の山陽は、左の如く言ふて居る。

『野人頼襄あり、独り曰く、子起固(もと)より、当(まさ)に然る可し。然るに非ずんば以て、子起と為すに足らず。吾知る、彼其心壮にして身羸(るゐ)、才通じて、志介なり。功名富貴を喜ぶ者にあらず、喜ぶ所は、間に処し書を読むにあり。吾嘗て、其精明を過用し、鋭進折れ易きを戒む、子起深く之を納れたり。而も止むを得ずして起ち、国家の為に奮つて身を顧ざるのみ。然らずんば、安ぞ能く壮強の年、衆望翕属(きふぞく)の時に方(あた)り、権勢を奪去して、亳も顧恋なからんや。唯然り、故に其任用せらるゝに当り、請託を呵斥し、苞苴を鞭撻し、凛然之を望む者をして、寒氷烈日の如くならしめ、以て此效を成すを得たり。故に子起を観るは、其敏に於てせずして其廉に於てし、其精勤に於てせずして、其勇退に於てすべし、聴く者以て然りと為す』

(六)

重蔵が、大阪に赴任したのは、文政二年であるから、齢は三十歳を出たばかりで、精気壮(さかん)の時であつた。

平八郎の齢は、判然(はつきり)して居ない。生れた年月が、実は不明なのであるから、例の事件で、死んだ時を、四十五歳とすれば、是も重蔵と同じやうに、三十歳位の時で、どちらも、油の乗り切って居る、働き盛りの年頃であつた。

重蔵は、江戸の与力の家に生れ、平八郎も、大阪の与力の家に生れたのであるから、不思議の廻り合せであつた。

両人共に、学問には精通して、その気性も頗る似通つて居たが、重蔵の方は、 与力として働いたことはなく、平八郎の如く、その点に於ての盛名は、なかつた代りに、北辺防備に、関する意見と、蝦夷地の探検には、先覚者として知られ、蝦夷の北端に、近藤岬なるものを、残した男であるから、平八郎とは、行く道を異にして、与力中の変り物、とされてあつた。

今のやうに、新聞が無いので、くはしいことは判らないにしても、同じ与力の事であるから、互ひに其噂は聞いて居るので、その為人(ひとゝなり)も、大概は、知つて居たのだ。

大阪へ、来てからの重蔵は、不平が手伝つて、平生の傲岸自尊は、一層ひどくなつて、それが為めに、親しい交友も出来ず、閑居して読書に、日を送るの外なかつた。

今日は、大塩平八郎が、訪ねて来て、ぜひ逢ひ度い、といふので、客室(きやくま)へ通させたが、丁度しらべ物をして居て、興味の乗つた時であるから、長く待たせて置くと、客間の方に当つて、恐ろしい響きがして、書斎の障子までが、ビリビリツと鳴つた。

凭れて居た机から身を起して、四辺を見廻した重蔵は、ニヤリと笑つて、立上つた。

はげしい足音が聞えて、家来の二三子が、慌たゞしくやつて来た。

『ハツ、申上げます』

『何事か』

『只今お客室の大塩様が、鉄砲を打ちましたので、一応は咎めましたが、さらに頓着なく、またまた打たう、といたしますので、やうやくに抑へましたが、いかゞいたしませうか』

『客人の打つた、鉄砲の響きであつたか、ハツハヽヽヽヽヽ』

何が可笑しいか、重蔵は、声を出して笑つた。

平八郎は、長くまたせられたが、さらに、重蔵の姿は見えず、凡そ一刻あまりは経つたであらう。元来が、癇癪の強い男で、傲岸の点は、重蔵に負けぬほどであつたから、可成り怒つては居るのだが、この儘帰つては、自分の負けになるから、どうせ待たせられるものなら、何時までも、待つて居よう、と、腹は据ゑたが、あまりの退屈に、ゴロリと横になつて、一と寝入りするつもりで、不図、床の間に眼がつくと、其処には、百目砲が、寄せかけあつて、硝薬も、傍らに添へてあつたので、急に立上り、床の前へ来て、その鉄砲を、取つて見た。

手入れも、充分にしてあるばかりでなく、よほどの上物であるから、やがて、硝薬を仕込み、それを提(ひつさ)げて、廊下へ出ると、庭の立木を臨んで、一発放つたのである。

轟然たる音響と共に、硝煙は、室内に漲り、的になつた立木ヘ、弾は、美事に命中(あた)つたので、それから重蔵の家来が、さわぎ出したのである。

二発目を放たう、と為るのを、一同が、泣付くやうにして、留めるから、打つことは止めて、筒の掃除をはじめた。その隙に、重蔵の書斎ヘ、訴へて来たのだつた。

平八郎は、筒の掃除を終り、之れを床の上へ置いたところへ、左手に、煙草盆をさげ乍ら、右手に煙管を持つて、ぬツと、はいつて来たのが、重蔵であつた。

互ひに、顔を見合せたが、何の詞もなく、重蔵は、席について、平八郎を、ぢツと見た。

『一発の御手並 感服いたした』

『あまりの退屈に、ほんの閑潰し、とんだ悪戯(いたずら)をいたした。御ゆるし下さい』

『ハツハゝゝゝゝゝ、打つ為の鉄砲、別に、不思議も御座るまい』

いくら打つ為めの鉄砲でも、人の家へ来て、こんな事をしては悪からう。それを咎めずに、却つて賞讃したのは、さすがに重蔵である。

かねて命じたものか、すぐに酒肴が運ばれた。平八郎の前へは、一つの小鍋が出された。その蓋が、ムクムク動いて居るのは、どういふ訳か。

『御遠慮なく………』

平八郎は、鍋の蓋を取ると、スツポンが、這ひ出した。

 重蔵は、平八郎の容子を、ぢツと見詰めて居た。

這ひ出した、スツポンを、左の手で、ぐツと抑へつけ、鍋の中へ入れると、小柄を取つて、その首を切つた。同時に、甲を剥いで、生血を盃にうけて、先づ自分が呑乾てから、その盃を、重蔵へ指して、

『足下(あんた)も、呑まれるか』

と、いつた。

(七)

その盃を取つて、重蔵も、一と口に呑んだ。スツポンの生血の呑分けなどは、ちよツと面白い。

落ちいて話合つて見ると、同じやうな気性の両雄(ふたり)であるから、この初対面で、肝胆相照らす交はりになつた。

それから、といふものは、互ひに往来(ゆきき)して、交情は、日の経つに従ひ、深くなつてゆく。

どちらも学者肌の人物であり、狷介にして、多く人と容れず、会(たまた)を友を得れば、骨肉の如くなる。殊に、幕府の措置に、不満を抱き、時世に慊(あきた)らぬ同志であるから、その談論するところの、よく折合ふのは、当然であつた。

自分の志でない、弓奉行にされたのでは、此上もなき、恥辱として、考へて居るのであつたが、幕府にも、自分を、能く知つてくれる人も、あるのだから、そのうちには、浮び上る時もあらうと、ひそかに楽しんで居たが、さらに左様した機会は来らず、只だ徒らに、星霜(つきひ)の経つばかりであつた。自分の体には、何の動きも、ないやうに思はれて、左なきだに、疳癖の強い、重蔵の気は、しきりに焦々(いらいら)して、事毎に不平が、高まるばかりであつた。

城代始め、幕府から、廻つて居る、在阪の役人は、すべて姑息な奴ばかりで、 重蔵の話対手に、なりさうなものは、只の一人もなかつた。独り平八郎のみが、自分の心をよく知つて居るやうに、思はれるから、平八郎には、しばしば逢つて、話す機会はつくるが、さて逢つて視ると、平八郎も、自分と同じやうに、矢張り当世に、不平を抱いて居る男であるから、却て、重蔵の心を、刺激することが多く、話合つて居るうちは、愉快でも、別れて後は、いよいよ不平が募つて、家人に迄、当り散らす事が、殆ど常例(つね)の如く、なつて来た。

急に思ひ立つて、庭内の一隅に、大きい工事を起した。家人も、初めのうちは、離れ座敷でも、つくるものと思つて、気にも留めずに居たが、いよいよ足場をかけて、大きい材木を組立てるのを、見ると、それが、火の見櫓の如きものであるから、さすがに用人の小暮作兵衛が、それと気が付いて、非常に心配を始めた。

一士人が、其筋の允許(ゆるし)を得ず、物見台に、ひとしき櫓を、つくることは、堅い禁制になつて居るのであるから、用人の心配は、決して無理のない事であつた。

其処で、作兵衛は、いくたびか、意見もして見たが、重蔵は、さらに頓着なく、工事を進めてゆくのであつた。

『万一にも、公儀より御咎めのありました場合には、何と申訳を遊ばす、この上の工事は、御中止の儀、ひとへに願ひ上げます』

作兵衛は、先代右膳からの家来で、重蔵の気性はよく判つて居るが、近藤家の一大事と思つて、涙ながらに、意見を為るのであつた。

『お前の心配は、わしにも、よく解つて居る。併し、わしには、相当の考へがあつて、為る事であるから、決して、心配するには及ばぬ。公儀からの咎めがあれば、立派に、申訳を、いたすつもりである』

と、いつて、さらに取合はず、工事は、いよいよ進むのであつた。

出来上つたのは、高さ数十丈の高櫓である。之れに登れば、市中は、一眸のうちに集まる、といふ立派なもので、誰れも、彼れも、これには驚嘆して、その傍若無人の振舞に、舌を捲かぬものはなかつた。

平八郎は、この事を聞くと、ひそかに配下のものをして、検分させ、その報告を得て、非常に驚いた。

すぐに重蔵を訊ねて、

『貴下にも、似合はぬ、何といふ失態である。斯かることに依つて、厳譴をうけるとなれば、御役御免は勿論、或は家名にも、及ぶかも計り難い。速に取除いて、後患を、未前に防がねば、やがて、一大事に相成るであらう。未だ、城代よりは、何の照会もないのが、何よりの仕合であるから、拙者の申す通りになさるやう、希望いたす』

『御親切の御注意は、まことに感謝に堪へぬが、拙者にも、多少の考へがある。此一事は、何人の勧告も肯かぬ、つもりである。要するに、一個の高櫓、それに何ほどの御咎のある筈もない。足下(おてまへ)も、一度登つて見られたら、いかゞで御座る』

終に、平八郎の忠告も、しりぞけてしまつた。

『奸漢惜む可し。只徒らに、気を負ふことの高くして、時流と合はず、この調子では、終に一身を誤るに至るであらう』

と、ひそかに嘆息したが、その平八郎も、矢張り後には、重蔵と同じやうに、上司と争つて、身を亡滅(ほろぼ)したのであるから、不思議の対照といふ可きである。


石崎東国『大塩平八郎伝』その44


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