Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.5.21最新
2001.2.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 伝』 その44

石崎東国著(酉之允 〜1931)

大鐙閣 1920

◇禁転載◇


収録にあたって、適宜改行しています。
また、明らかに誤植と思われるものは訂正しています。

  文政十三年 十二月改元 是年三月閏 先生三十八歳 (3)
先生尾州宗家ヲ訪フ
 
是年秋九月先生尾州ニ赴キ宗家ヲ訪ヒ、祖先大塩氏ノ墳ニ謁ス、

頼山陽即チ送序ヲ作テ其行ヲ壮ニス、是ヨリ先キ先生早ク屡々宗家ヲ訪ハント欲スルノ志アリ、閑ヲ得ス、今ニ至ル、

是年先生致仕シテ身漸ク閑逸、即チ始テ此ノ行ヲ興ス、悠々之ヨリ去テ帰路龍田高尾栂尾ノ諸勝ヲ並セ探ラントス、書ヲ致シテ先ツ予メ其行ヲ宗家ニ告ケ、且ツ云フ

僕既ニ隠者ノ余ノミ、先考政之丞ノ曾テ槍ヲ建テ、具足櫃ヲ持シ、供揃数多ヲ具セル如キノ格例ニ依ラサルヲ咎ムル勿レト。

九月二十八日門人家童四人ト軽装大阪ヲ発シ、伊勢路ヲ経テ陸路十月七日夕名古屋ニ入リ、橘町七丁目近江屋清八ニ投シ、翌朝大塩氏ヲ訪フ、宗家大ニ喜ヒ歓待至ラサルナシ、

先生是ニ於テ始祖善行公ノ御弓ヲ拝観シ、又宗家菩提所ノ在ル所大光寺 名古屋市鍋屋町日蓮宗也 先塋ノ碑ニ典ス、神弓ニ対シテハ往時ヲ追懐シテ古風長篇ヲ賦シ、大光寺ニハ即チ先祖祠堂金若干疋 十両ヲ納ム ヲ奉納シ、淹留七日十月十四日海路大阪ニ帰ル、竹上孝太郎 **1 等之ニ従フ。

山陽送序
      送大塩子起適尾張序方今海内勢偏於三都、三都之市皆有尹、而大阪称最劇且難治焉、蓋地濶絶、大府而為商売所窟、富豪廃居、至王候(侯)仰其鼻息以為憂喜、尹来治者、更迭弗常者、乃属吏襲子孫、諳故事如掌故、而尹仰之成、成以賄、蠹于上、浚于下、結猾賈、延閭閻、黠民為爪牙、乃至藩服要人、或為之支党、声気交通、尹心知之、而主客勢懸、苟傍観、吏雖有良焉、衆寡不敵、浮沈取容而己。及至近時、乃有吾大塩子起、奮於吏群、独立不撓、克治其姦、為国家二百余年之弊事云。蓋上有高井君之為尹、能用子起子起得以展其手足也、子起之始受密命也、自度事済補国、不済破家、々有一妾、出之使無所累、然後運籌決策、指顧親信、発摘出意外、斃其為封豕長蛇者、駢首就戮、内外股栗、乃挙其贓、得三千余金、曰是民膏血也、尽給之小民、因建振済煢独法、事在己丑春、先是丁亥、治妖民持蕃教者、尽抉種類、庚寅又汰浮屠汗行者、先申戒勅、不悛者流竄、群邪屏息、至京幾諸衙、承風黜貪墨奨公廉、当此時、子起能名震三都間、至呼其名以相。而今茲七月、高井君告老請代、子起作曰、君退吾烏敢独進、遂決意、力請退得允、聞者莫不驚愕、野人有頼襄、独曰、子起固当然、非然不足以為子起、吾知彼其心壮而身羸、才通而志价、非喜功名富貴者、所喜在処間読書、吾嘗戒其過用精明鋭進易折、子起深納之矣、而不得已而起、為国家奮不顧身而已、不然安能方壮強之年、衆望翕属時、奪去権勢、毫無顧恋哉。唯然、故当其任用、呵斥請託鞭撻苞苴凛然使望之者如寒氷烈日、以得成此効爾、故観子起不於其敏而於其廉不於其精勤而於其勇退聴者以為然。子起家系出尾張同族在焉、今将往省之、身名両全、報国報家、拝其先墳可有以告歟、時方秋矣、欲路竜田過中瀑還討高雄栂尾諸勝、如脱(コゴテ)之鷹、卸(ホダシ)之馬余其俊気健力自撃于空騁于野快如何耶。故言此奨之、且預嘱其勿再就也。文政十三歳在庚寅秋九月 洗心洞箚記附録抄 陽明学派之哲学補記


管理人註
**1 「竹上万太郎」のことか。


井上哲次郎「大塩中斎」 その5


石崎東国「大塩平八郎伝」目次その2(年譜)
その43その45

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