『事実文編 第5』(五弓豊太郎編 国書刊行会 1911) より
小史氏曰、平八一俗吏耳、而嗜読書、稍識文字、自師其心、欲出于人の意表、其所奉之学、則陽儒陰仏、其所求之心、則功利名勢而已、故不得于其上、而不能反求之于己、一朝之怒亡其身、終為賊焉、所謂其良心者将安在乎、然彼之在職、散財不吝、聴訟如流、交友頗博、声誉籍于、一時、故附勢趨利之徒、往々客于其門下、而今連坐被罪者或有之、鳴呼聖人之学、闢異択友、尤所以不可不講也、
■読み下し文■ (試作)
初め 平八在職の日、姦吏を誅し、盗賊を捕え、訟獄剛断、屡(しばしば) 窮乏を恤(あわれ)む、官倉給せざらば、則ち 私財を捐て、以て之を贍(た)す、故に府下の民 皆之を信ず、
曾て 天主教の者有り、平八 皆捕えて之を斬る、後 職を辞し、書を読み、専ら陸王の教えを奉じ、孝経及び伝習録を註す、従い游ぶ者多しと云う、
丙申(ひのえさる)秋歳 飢える、米価騰貴し、府下の民 困乏す、今春に至り益々窮る、是に於て 平八 救荒の策数道を上す、
町奉行跡部氏、曾て平八と間有り、故に其の言を聴かず、平八 金を府下の富商に募るも、亦従わず、遂に其の図書器財を鬻(ひさ)ぎて、五百金を得、尽く之を散じ、以て守口の村民を賑わし、且つ命じて曰く、今 吾 兵を発して酷吏を誅せんと欲す、汝等 如(もし)命を聴かざる者尽く之を斬らん、村民二百余人 皆之に従う、
会(たまたま)二月十八日、恪之助 瀬田済之助 小泉清兵衛、町奉行廨(かい)に当直す、其の夜、潜に跡部氏を殺さんと欲するも、事覚る、跡部氏の臣竹善之助という者有り、清兵衛を斬る、恪之助 済之助、刀を揮いて相接すれども克てず、牆(かき)を踰え逃げ帰る、
平八 乃ち其の妻妾及び門人奴婢を逐ち、自ら其の家を焚き、衆を率いて砲を車に載せ、衆に之を牽かせ使め、先ず与力町に発ち、東照宮天満祠に及び、延焼して天満市側北森町に至り、賊衆 南の天神橋を渡らんと欲す、
町奉行 其の卒に命じて、橋を截り路を絶つ、賊 遂に難波橋を過ぎ、今橋に抵り、砲を鴻池善右衛門荘兵衛二家に発す、
転じて高麗橋街を過ぎ、三井岩木諸家を火(や)く、賊勢猖獗(しょうけつ)、高麗橋を渡り、而して直に城を攻めんと欲す、
城の留守古河侯、之を東岸に拒ぎ、尼崎侯来援す、矢石 更に発し、賊 渡ることを得ず、溝を隔て砲を紀侯邸に発し、烟焔(いんえん)地を捲き、延焼して、東は町奉行廨前に至り、南は太左衛門町に至る、
又 南は淡路町堺街を過ぐ、隨在 砲を発し、町奉行の騎卒と接戦す、
界*1町奉行 亦来援し、殺傷 更に多く、時に高槻 小泉 高取 狭山 伯太 岸和田 諸侯の兵 来集し、城兵 大いに振い、賊 皆逃散す、其の介冑(かっちゅう)旗幟を平野街の井に投じて去る、
平八父子 舟に乗り淀川を溯り、江口に至りて舟を捨てゝ走る、其の在る所を知らず、
瀬田済之助 近藤梶五郎 信貴山に走り、済之助 自ら縊り、梶五郎 自刄して死す、庄司儀左衛門見南都に於て捕る、其の余は皆 相尋ね捕る、二月廿七日、平八妻妾二人 京師柳馬場の逆旅(はたご)に捕る、
三月廿六日、城留守古河侯、平八父子 阿波座油懸町三好屋五郎兵衛家に潜居を聞き、士卒を遣し之を囲む、町奉行 亦 卒を以て之に赴く、平八父子 其の逃る可からざるを知り、自ら刄に伏し其の家を焚く、 官命にて其の骸を火中に索め、塩蔵して獄に下す、 小史氏曰く、平八は一の俗吏のみ、而るに読書を嗜み、稍(やや)文字を識り、自ら其の心を師とし、人の意表に出んと欲す、其の奉る所の学は、則ち陽儒陰仏、其の求むる所の心は、則ち功利名勢のみ、故に其の上を得ずして、 之を己に反求(はんきゅう)能わず、一朝の怒に其の身を亡し、終に賊と為る、謂う所の其の良心 は、将に安(いずく)在らん乎、 然るに彼の職に在るや、財を散じ吝(ものおしみ)せず、訟を聴くは流るが如く、交友 頗る博し、声誉 一時に籍す、故に勢を附し利に趨の徒、往々其の門下に客し、而して今連坐し罪せられるる者 或は之有り、鳴呼、聖人の学、異を闢き友を択ぶ、尤も講ぜずべからざる所以也