『事実文編 第5』(五弓豊太郎編 国書刊行会 1911) より
官兵天馬橋を護る、是に於て浪華橋を渡り、火僊(かせん) 坡(つつみ)に及び上坊の民舎に放つ、賊は鳥銃或は【金票】鎗(ひょうそう)を提げ、以て刧略す、其巨砲特に富商に之を発し、時 西北風急にして、黒煙天を覆う、市民魂飛び膽破れ、老を負い幼を携え、之暇あらず、弾 老に中り 鎗牙に触るる者 算無く、府尹(いん)堀伊州、京門の騎卒を率いて石街に至り、遥に賊の旗幟を見、命じて鳥銃を発す、賊亦之に応じ、相距り遠くにして丸(たま)及ばざる也、然るに馬驚き、堀尹墜つ、
賊 知ずして西す、府尹跡部城州玉門の騎卒を率いて、賊と案橋之西に遇い、煙焔面を覆い前(すす)むべからず、乃ち途を瓦街に取り、淡街に出で、玉門の騎士 坂本鉉 鳥銃に精しく、一発で賊梅田源を斃し 其頭を断つ、槊(はこ)上に注(つ)け 以て衆に視せしむ、源 亦 砲技を以て自ら任せて、而して虜衆倚(い)頼する所也、
是に於て蟻潰鼠駭(ぎかいそがい)、兵器を委(す)て四竄(さん)す、府尹士卒縦え之を捕う、又 命じて火を防ぎ、両日夜 火始めて【火替】(しずま)る、而して平父子等猶未だ獲れず、是時 留主土井侯及び在城諸将、各々陣を其門に張り、府下諸藩邸 兵を出し約束を府尹に聴く、尼崎侯老某兵八百を率い入援し、岸和田侯 亦 兵を遣し赴援し、天王寺下に陣す、姫路師兵庫津に次し、郡山師 暗嶺に次す、並びに賊已に平ぐを以て旋(めぐら)し、畿内播紀諸国、関を置き平の物色を益々急ぎ、其諸国獲る所、賊党の俘馘(ふかく)皆之府に致す、
既に月を踰ゆ、平 府の靱坊(うつぼ)染戸に匿うを告ぐる者あり、乃ち兵を遣し之を囲み、平父子 自ら焚死す、
初め 平 吏と為り、妖巫姦【髟/几】(こん)贓吏(ぞうり)の獄を断つ、深文厳酷、府下寒せずして粟、名 遂に大に著る、文政庚寅(かのえとら)致仕し、読書教授を以て居す、意 蓋(なんぞ)抜擢に在らざる也、然るに官 終に問わず、是を以て忿懣自ら遣る能わず、執政を罵詈し、時事を誹謗し、遂に不軌を図り、陰に死士を養い以て変を竢(ま)つ、
天保癸巳以来、歳歉(けん)民窮り、丁酉の春に至り益々甚し、是に於て其蔵書を售(う)り、窮民を賑救す、其事を挙ぐるに及び、亦【貝周】【血邑】(しゅうじゅつ)に托し 以て民を聚(あつ)む、
平は子無し、甞て西田氏の子格を養い嗣と為す、之が為 河内の豪農の女を娶り美、自ら之を取り妾と為し、子弓を生む、平 大に喜び 以て天命既に帰すと為す、甞て衆に誇りて曰く、我駿侯は今川治郎之裔也、因て弓は今川氏を冐せ使む、錦袍を被り之を翼戴し、以て主将と為す、時 生僅か三月、後 弓は其母と獄に繋る、
府尹 之の閭里を視するや、例により吏朝岡氏に憩う、今年は二月十九日を以て期と為す、而して朝岡氏舎は平と相対す、平 陰に此日を以て朝岡氏を襲い両尹を斃し直に天馬橋を渡り府城を抜かんと謀り、乃ち檄を作り摂河泉三州の民を召す、而るに其党平山助二 吉見九郎兵衛 変を告げ、是を以て両尹巡視を止め、預(あらかじめ)之の備を為す、故に大乱に至らざりしと云う、