『事実文編 第4』(五弓豊太郎編 国書刊行会 1911) より
是の先 七年丙申、霖雨春より秋に及び、米斗二千銭、流民餓死す、
大阪百貨輻輳之地と為り、民 豪富多し、十月、東府町奉行跡部山城守、令を富戸に下し、分を窮に賑するを勧む、 応ずる者百戸、財を捐じ散給し、大率 毎戸銭三百を受く、
十二月、復 令を下し、初の如く、前後捐金四千五百両、
八年二月、城代町奉行粟二千石を府下及び兵庫西宮に散給せしめるも、餓死故の如し、
摂河泉播四州の窮民 東府に至り、富戸に命じ 米一万石を捐ずるを請う、允されず、則ち大塩氏に詣り、哀訴して去らず、
平八郎、世に東府属吏為り、時に老を告げ家居す、
之を聞き慨然、振済を以て自任し、富戸に歴説するも、一も応ずる者無し、
則ち、子格之助に事を上白せしむ、
山城守悦ばず、立ちて平八郎を召すも、辞して聴かず、
督迫して衙に上らせ、面罵して曰く、
救荒に我自ら成算有り、豈汝の言を待たんや、老を告之人 職を越え事を言ふ、跋扈敢爾、牘を擲て起つ、
格之助を叱り、疾引 出さ使む、左右之を弥縫す、
則ち 又罵りて曰く、
此事 初より汝に干(もと)めず、汝当に口を箝すべし、聞く、汝 富民を威却し銭穀を借りるは、乃ち狂病に無きや、
対えて曰く、
下官未だ嘗て狂病せず、閤下以て狂とせらるや、則ち請う狂態を献ぜんと、
刀を按じて起つ、格之助之を沮む、
帰りて則ち門を閉じ、自責者と為して、陰で乱を作すを謀る、
僚属門人多くと、謀洩るゝを懼れ、皆妻子を散遣す、
会(たまたま)西府町奉行矢部駿河守東帰す、
二月十六日、堀伊賀守来り之に代る、
故事、奉行 部を按じ、東西共に行く、
山城守 将に十九日を以て、東照廟を拝せんとす、
格之助 小泉淵次郎を留守せしむ、
平八郎 之を聞き、廟の己宅に接するを以て、(淵次郎又其党也)乃ち是日を以て事を挙げ、廟を囲み二奉行を殺さんと期す、
格之助 淵次郎に奉行府を火せしめ、因て襲い府城を取りて庫を発き窮に振ず、
乃ち遽に掲示文を作り、日夜鐫搨 摂河泉播之間に散布し、又 書を鬻(ひさ)ぎ金六百両に換う、
十八日、窮民を招集し 万余に、人毎に一朱を与う、
因って 其強壮者を録し 三百人を得たり、之と約して曰く、
明日 我 土功を起す、能く来助する者に金百疋を与うと、
衆諾して去る、
是夕 平山助二郎 変を東府に告ぐ、山城守 其を馳せて江戸に告げ使む、
夜已に半、俄に明日の部を按ずるの期を停め、外曹上宿の者、淵二郎、瀬田済之助、吉見九郎右衛門、事露を覚り、刃を露し 内寝を襲う、
克てず、淵二郎 侍者 高橋源之進の殺す所となる、
二人墻を越え 逸帰る、
倉卒に備を成し、
前隊に旗幟二竿を並び建て、火箭銃一車を前に、鎗手を後に、格之助 之の将、荘司儀右衛門 大井正一郎 之の副とし、
中隊は銃手を前に、鎗手を後に、平八郎 之の将、
後隊は鎗手を前に、銃手を後に、
殿は火箭銃一車を以て、済之助 之の将、渡辺良左衛門・近藤梶五郎 之の副とし、
凡 火箭銃二車、巨銃二十三、鳥銃七十五、鉛子六櫃、焔硝八箱、鎗手二十二員、主皷一員、銃工一員、卒二百人、
十九日黎明、将に発す、
宇都木隼人 盟に負き、斬を以て祭る、
平八郎 自ら其宅を火き、東照廟祝吏を呼びて曰く、
火を発す、疾く神主を奉じて生玉へ遷せ、卒を遣し之を助く、
既にして三大銃を放ち 廟を焼く、凡 賊の至る所、先ず人を遣し 行き呼ばわりて火を避く、
既に北郭を焼く、
車を反して南に馳せ、富戸を望み 輙ち銃を放つ、豪商大根屋氏を過ぐ、
曰く、
是能く富て倹なる者、銃を斂めて去る、
天満橋に至り、則ち桁已に断つ、
河に沿い西に天神橋へ走る、
会(たまたま)山城守 南岸に軍す、卒に命じ橋を断つ、銃を放ち之を撃つ、斧を手の者二人を斃す、而して橋已に焼断す、 又西に走り難波橋より南に渡り、遂に船場に入る、
船場は富戸の会する所也、縦横に火を放ち、火道数十、烟焔天に漲る、
時 正に午刻、東駆して東塹に至る、
山城守逆に高麗橋西を撃つ、
賊 和田彦右衛門 練袍鉄鎖甲、髪に被る白布を首に抹、紅の絨衣を襲ね、臂捍で麾(さしまね)き揮いて進む、
橋爪に銃を列べ 五六十、一時に斉発す、
退きて城代及び諸鎮兵と合し、再び進みて平野橋西に戦ひ、又 賊に敗る、
橋を奪ひて東し、遂に上野にに入る、
吉見九郎右衛門 銃を以て山城守を撃つも中らず、馬に中り仆る、
山城守 神明廟に竄(かく)る、
堀伊賀守 卒、遠藤但馬守家臣玉造与力等来援、遠藤陣代畑左秋之助 彦右衛門を撃ち、篠田孝之助 岡部佐七を撃ち、皆之を獲る、
火箭筒を奪ひ、人家の井中に投ず、玉造与力坂本鉉之助、八田又兵衛、興茂太郎、本多為之助、銃を以て賊を撃ち、各獲有り、
未刻に至り、賊已に散りて、火は益熾なり、凡首を獲ること六級、俘三十人、伊賀守府下を巡察し、鎗に首二級を貫き 以て徇(したが)う、 賊の遺す所の銃砲二十、鎗七、眉尖刀二、竹槍八、刀三、旗二を獲る、
府城 戒厳し、番頭二員、北条遠江守、遠藤但馬守 牙城を守り、玉造口に柵を結び 【碼交】を設く、
城代土井大炊守 羅城を守り、城北に柵を結び陣を列ね、番四員を加へ、土井能登守 京橋口を守り、米津伊勢守、小笠原信濃守、青屋口を守り、柵を結び銃を列ぶ、
井伊右京亮 遊兵を将し之を助く、番二員を定め、菅沼織部正 桜門を守る、
翌日午後に至り、陣を移して玉造を助く、米倉丹後守 京橋口を助け、船弓銃甲 四奉行及び目附 城代家臣 外の柵門を守る、
天主台番士 台に登り四面を候望す、濠の外に幕を張ること二層、邏兵城下を巡察し、部署を方を定む、
時已に申刻なり、
岸和田 尼崎二鎮 兵を率いて至り、岸和田は能勢口に、尼崎は青屋口に及び、山田は官営に屯せしむ、
是役也、官軍 鉄鎖甲を衷し、外に救火衣を襲ぬ、
廿日、三田 高槻 郡山 三鎮の兵至り、境外に屯し命を待たしむ、
未刻、京都東町奉行梶野土佐守、部兵を来援せしむ、所司代の命を以て也、
是夜丑刻 火【火替】り、凡火延ぶ所、天満則ち北 郊に至り、西は堀川岸東に止り、東南大河に至る、船場則ち北 大河に至り、南は安土町に止り、東は東塹に至り、西は中橋に止る、上町則ち北 大河に至り、南は内本町に止る、西は東塹に至り、東は府城に止る、
町として百五十、戸一万二千五百七十八、倉庫六百十四、窖(あなぐら)百零三、祠廟四、寺観卅六、橋六、官局二、銀秤二座、獄舎東西部、与力宅五十八、同心宅七十二、藩邸五、
廿一日午刻、城代令を下し、物色 賊を索め、淀河行船を禁じ、関を四境に設け、諸鎮邸臣之を監せしめ、畿内及び紀播但二丹諸鎮に檄し、関を山海に置き、官道間路厳しく譏察を行う、
廿二日、諸鎮援師に罷り遣し、午刻 飛報有りて西府に至り、云、
賊能勢口より来る、府城 遽に戦備を為す、
未刻又報、賊去りて跡無し、
尋ね又報ず、紅白の旗幟有馬山に見ゆ、退軍の状に似る、
城代 其北に出で丹より京を犯すと慮り、逓を伝え 京師 亀山に報じ、之の備を為す、
既にして又報ず、
賊は西 六甲山に入り、神咒寺に拠り、僧辞に粮無きを以て、乃ち去りて跡無し、
初 京師警報を聞き、皇城を戒厳し、七道を守る、所司代松平伊豆守、梶野土佐守に命じ、兵を将いて亀山に援せんとし、将に発せんとす、会(たまたま)部の兵 大坂より帰りて報ず、乃ち罷む、
廿三日、大塩家の奴 闇嶺にて獲る、申刻、淀河船の禁を開くを、府下に掲示す、賊已に死亡、其の土功を起し市肆を開き 或は顧慮無きを諭す、
廿四日、三人 伏見 淀 木津川に獲る、府城 厳を解き、諸鎮邸の臣救火の卒を率い、更に府下を巡り、両奉行 部吏を率い、焦墟を按撫し、目附に賊を索めしむ、
廿五日、両奉行 富戸に命じ窮を振(すく)う、流民を天王寺、生玉廟に会せしめ、毎人に米五合銭三百五十を与う、
廿六日、平八郎の妾 及び女 格之助妾 男 奴婢共八人 京師の客舎で獲る、梶野土佐守之を管す、
奴橋本忠兵衛曰う、格之助妾之父也、供して云う、
臣等敢て上に叛き 法を犯すに非ず、乃ち上に叛き法を犯す者を誅するのみ、今 天下の貸利は大坂に【金里】(あつま)り、利柄は豪商の扼する所と為す、
封君の官吏、反つて首を俯し尾を揺らし、其鼻息を仰ぎ、惴々として是懼れ、其喜怒を視て、以て国家の安危と為す、
方今 歳荒れ民流れ、奉行たる者当に粟を移し民を移し、分を勧め急を周らし、溺を拯い焚を救う、汲々及ばざるが如くして、恬然と坐視す、
肯んじて之の規画振済を為さず、惟 荒政富戸に利せざるを恐るとなす、即ち令を下し振窮し、亦惟 文を具し、纔に以て責を塞(うずむ)となす、曾て実恵一窮民に及びたること無し、
餓【艸/孚】道に満てども、之を恤せず、富人僭奢すれども之を禁ぜず、寧ろ公民瘠せ、以て私家を肥やす、寧ろ県官が負ひ、素封家は負はず、
夫 赫々たる朝廷の命臣、而して甘んじ富家の主管を為す、此豈国家官を設け民を牧(やしな)うの意乎、
神君の條制 此に至り 蕩然地を掃わんや、則ち 上に叛き法を犯す、罪大なるは莫し、臣等憤々之心勝(た)えず、貪官酷吏と夫僣奢法を橈む之民とを鋤(ねだやし)し、以て国家の恩に報い、然る後 死は司刑に帰し、赤心暴白(あきらさま)にせんと欲す、
是を以て 十九日事有り、不幸にも謀洩れ事敗る、平八郎等退きて 舟を天神橋東に上げ、臣に囑し 家人に自裁を勧め、官捕を労する勿れと、臣本日未刻を以て 馳せて京師の旅舎に至る、一に外孫を見、手刃するに忍びず、
日 復一日、誤此に及び、自ら愛に溺れ 信を失うを愧ず、黄泉之下、顔(かんばせ)平八郎に見(まみ)ゆる無きのみ、神色自若、辞気慷慨、
命により獄に下り、三月朔 大阪に押送、
十日、笹山鎮 府朝命を奉じ援師来らしむ、十曽河に至り、姫路鎮 援師亦来る、
城代 事平を以て、皆辞して之に還る、
城代家臣 内山某 油懸商家に大塩父子の舎匿を聞く、
廿七日黎明、内山某 西府属吏と、緝捕の兵数十人を率い、商家を囲み、至るに則ち火発し宅燬る、
焦骨を灰燼中より収め、載するに二轎を以てし、姓名を標書す、
蓋し大塩父子也と云う、
是より先 済之助 自ら河州恩地山中に縊り、良左衛門 田井中村で自刄す、梶五郎 其宅墟で自刄と云う、
儀左衛門は南都で、正一郎は京師で獲られ、凡 物色する所の者八人、惟 河合郷左衛門 逃げ在りし、余は皆 捕に就くと云う、
四月、府朝 書を両奉行両目附に賜り、其労を褒し、特に山城守を賞し禄を加う、
五月、城代土井大炊頭 東帰し、職進みて京都所司代を拝す、
七月朔、両奉行 部吏に賊囚及び連坐の者を江戸に押送す、
賊首平八郎は天満与力大塩某の義子也、
本 河州を貫とし、家世経宗檀越を為すと云う、
少くして吏幹有り、廉明 私無く、天保初、京師にて天主教の禁を犯す者有たる事発き、平八郎獄に治む、連坐数百人、府朝に論報し、尽く死に処す、書を賜り労を褒さる、
時に貨賂公行し、吏多く奸貪す、公差 卒有り、四家と曰う、至る所鴟張し、小民を侵漁し、諸藩 之に患う、
平八郎建言し、並に沙汰して之を流斬す、旧弊一洗され、民 蘇息を得、翕然 称して快吏と為す、声名藉甚しく、当世の名士、千里 交を結ばざる莫し、
年三十余、老を告げ 家居に学を講ず、
人と為り白皙、眉目画の如く、豪爽機決、音吐 鐘の如し、議論風生、学は陽明王氏を崇ぶ、
博く技芸を渉り、従う遊者数百人、或は経義、或は文章、刀鎗弓馬炮烽之術に至り、求に応ぜざるは無し、
洗心堂箚記 *2 を著し、世に行い、乱を作すに及び 今川氏を冐し、蓋し原姓に復すと云う、
死年四十五、一子を太郎と曰、甫二才、
弟を宮脇志摩と曰、吹田村の祠祝也、乱起るを聞き自殺、
一女 平八郎養ひて子と為す、
格之助は平八郎の義子也、本姓西田、世に天満与力を為し、死年廿七、
賊党 物色之数在らずして、捕に就きし者、瀬田藤四郎、吉見九郎右衛門、松本林太夫、橋本忠兵衛、上田孝太郎、白井孝右衛門、杉山三平、
其の未だ捕に就かざる者、大西善之丞、川井勘六、茨田郡次、川井五左衛門、安田図書、志村周次、播田小二郎、堀井儀太郎、高橋九右衛門、曾我岩蔵、西村喜八郎、忠五郎、利三郎、七助、深尾次郎兵衛、林与左衛門、作兵衛、猟戸金之助、剞【厥リ】(きけつ)師次郎兵衛、源助、印搨某、匠師治助、