発行人 向江強/編集 和田義久
目 次 第103回例会報告 はじめに (7)内藤神尾達書 (8)矢部駿州届 ○資料・東生郡 部分地図 寛政元年・「預地」・大塩宗家系図 ○新刊案内 武藤功著『国家という難題−東湖と鴎外の大塩事件−』 ○大塩宗家系図
(7)内藤神尾達書
この資料は、勘定奉行神尾山城守元孝と内藤隼人正矩佳が「御預所」の役人中(庄屋など村三役)へ宛てた達書である。この「御預所」については、理解の異なる意見が出されたが、藩預かりと理解した方がよいのではないかと判断することにした。預所とは、幕府が天領のうち大名・遠国奉行・旗本などに統治を委ねた土地をいう。ただ、なぜ預所にだけこの触書がだされたのか、疑間は残った。
内容は、平八郎ら3人が剃髪して逃げ延びたという噂があり、一方河内国太子堂村の結蔵が弓削村辺りで剃髪した坊主3人と出会い、傷を負わされたとの話が符号すると大坂町奉行が言ってきたので、その旨御預所へ知らすべしとの、触書であった。
この時の状況を幸田成友『大塩平八郎』から抜き出してみる。大塩父子と良左衛門は、大和を指して落ち行くことに決め、それには姿を変えるのが必要と考え、途中で剃髪して僧体となった。昼夜となく足に任せて間道を歩いたが、良左衛門は疲労困感のため、恩師の先途を見届くる能わざるを恨み、自ら立派に切腹した。大塩は涙ながらに介錯したのか、頸部に大きな刀傷があった。発見場所は河内国志紀郡田井中村、今の八尾市である。なお、渡辺良左衛門は東組同心、挙兵当時41、2歳平素温厚実直の人であったため何様して彼が大塩に党したかと、聞く人々が驚いたと、幸田成友はその人なりを書き留めている。
ところで、この資料にある太子堂村の結蔵への刀傷沙汰は事実であったかどうかは明らかでなく、例会でも指摘はなかった。
(8)矢部駿州届
この資料は、勤定奉行矢部駿河守から大岡紀伊守留守居への達書である。
内容は、平山助次郎の跡部山城守への密訴から、矢部駿河守への出訴にいたる経過を聴取した上で、平山ら三人を大岡紀伊守へ身柄を預けることを命じたものである。
これについて、幸田成友は「駿河守は、一応取糺の上、3月朔日老中水野越前守へ宛て、大切の訴人、揚屋入りを申し付け、万一病煩等あらぱ取調べに差支え、また同人に遺恨を含み、付け伺う者もなしと限らねば、当人並びに小者二人は大名へお預けにしたいという伺書を出し、許可の上、同日三州額田郡西大平の城主大岡紀伊守忠愛へお預けとなった」と書いている。
このように、大塩一党の企てが、平山の密訴によって、事前に露見したことは夙に知られていることである。しかしながら、この資料によれぱ、この平山が昨年1月から「町目付」といわれる役職につき、町奉行組与力・同心の勤務ぷりや市中の風聞、また奉行の隠密御用を務めていたことになる。つまり平山の密訴、すなわち返忠に出た行動の背景に、町目付という職務が絡んでいたのではないかと想像されるがいかがであろうか。
○参考資料
【東生郡 部分地図 寛政元年】