発行人 向江強/編集 和田義久
目 次 第101回例会報告 はじめに (25) 京ヨリ宇野氏書簡 (26) 堂嶋町人ヨリノ書 (27) 尾張屋・庄屋書 『塩逆述』巻之五 (1)焼失場町所附荒増し (2)松平土州届 補足10号 (3)藤堂泉州届 補足10号 (4)浦々触 (5)堀家来ヨリノ書 (6)稲葉丹州届 ○ 押収武器 ○資料・御役録 堀・「大塩の乱に参加した村々」補足10号・鎧図 第102回例会報告 落吟記、落首
はじめに
第101回例会(『塩逆述』からは第34回)はll月24日に開催、19人が参加した。55丁から59丁まで、つまり巻之四の最後までを読んだ。
巻之四は1997年3月から始め、9カ月を費やしての読了であった。時間に余裕があったので巻之五に移り、5丁まで進んだ。
(25)京ヨリノ宇野氏書簡
この資料は、京都在住の宇野勇左衛門が、20日付の大坂天満飛脚屋からの知らせを受けて、翌21日宛先は不明ながら江戸に送った書簡と思われる。飛脚屋の情報から、京橋口・毛馬村舟渡場の往来が通行止めになったことがわかる。「全一揆大変之趣」と単なる火事でないことを江戸に知らせている。
(26)堂嶋町人ヨリノ書
大塩焼けからは免れた堂島の町人が江戸に出した書簡と思われる。「貴地慶安も如斯哉」と由比正雪のことを思い出していることから想像される。
「大坂北在ロニ奈木村と申得穢多村有之、其外守口村・三番村三ケ所徒党ニ組仕、火の手相図に三方ヨリ大塩之家二集り」と書いているが、事件が起こって2日後の21日付書簡にしては、詳しい情報を得ていたように思われる。疑間の出た奈木村は、淀川左岸の荒生村ナギムラ(元来は葱生村と表記)のことで、『大塩平八郎一件書留』では、忠七・善兵衛・甚七・清兵衛・善左衛門・庄兵衛・武助・伊(仁)兵衛の8人が罰せられている。
(27)尾張屋・庄屋書
この資料は、尾張屋宗左衛門からの京屋弥太衛宛の書簡と大坂の庄屋安兵衛の宛先不明の書簡の二通からなっている。特に興味ある記述はなく、読む会でも何ら間題の指摘もなかった。
これで、巻之四は読み終える。
(1)焼失場町所附荒増し
焼失した町の一覧は、巻之四「御舟手本多ノ臣ノ書」の9丁に収録されて いることもあり、ここは省略して、先に進んだ。
(2)松平土州届
松平土佐守は誰で、何藩の領主か、また蔵屋敷の場所も調査中、ご存じの 方は御教示願いたし。 *1
(3)藤堂泉州届
「拙者大坂蔵屋敷類焼仕侯段、御用番江御届申侯旨、昨日」とあって、以下脱文となっている。津藩の蔵屋敷がどこにあったか調査中、ご存じの方は合わせて御教示願いたし。 *2
(4)浦々触
幸田成友が「摂、播二国の津々浦々に触れ回し、廻船小船または漁船を雇い、他国に渡らんとずる不審の者あらぱ、一切命に応ずべからず、何とか手段を運らして本人を抑留し、その旨直ちに届け出ずるにおいては、過分の褒美を与うべし」と『大塩平八郎』(中公文庫pl54)に記述しているが、その根拠となる資料がこの「浦々触」と思われる。
##内容的なものを考慮して「10号」 「前号の補充」 からの捕捉をここに ##注記として続けます。*1
*2
「(2)藤堂泉州届」
大坂蔵屋敷は西成郡川崎村、現在は泉布館の北側にあったと、井形正寿氏から
指摘があった。
堀伊賀守の家来中村麟左衛門が吉見藤兵衛に宛てた書簡である。天保8年の「浪華御役録」には「書翰」という肩書きがついている。宛名人は誰か不明。取り上げた武器が書きこまれでおり、たぷん検分後に記録したものだろう。
押収武器については、各種資料に記載されており、井形さんから2、3点資料をいただいた。その一つは、次に収録した「浮世の有様 七」で、他に紙面の都合で割愛したが、『編年百姓一揆史料集成 第十四巻』p227や「大塩一件写 三編」(井形氏蔵)も紹介していただいた。
右品数左の通
一、大筒台上車但地車也。
一、大筒台覆弐。但青革壹枚、白革壹枚。
一、具足四領。外に洞斗弐つ。
一、鳥目弐百文包数弐十。百文包同五十。
一、太鼓壹つ。
一、楯台壹挺。
一、細帯壹筋。
一、付木大把壹把。
一、刀三本。
一、脇指十五。
一、木綿紺ぱっち壹足。
一、長刀壹振。
一、槍六筋。
一、大筒・鉄抱・木綿枕壹つ。
一、小筒鉄抱三挺。但三匁玉。
一、火縄四把。
一、大筒引縄四筋。
一、細引弐把。
一、紺網袋壹つ。
一、桐紋付黒木綿羽織壹つ。
一、着込壹つ。
一、座蒲団壱重。
一、腰提姻入艸壹つ。
一、雑物乗せ台車壹壹つ。
一、火矢責箱十五本。
一、樫旗竿壹本但丈三間。
一、鉄棒壹本。
一、鷺口萱挺。
〆右の通有之
出典「浮世の有様 七」(『日本庶民生活史料集成』第11巻 p463)
この史料は、江戸在府の淀藩主稲葉丹波守正守の届出であるが、内容は淀藩領河内国高安郡恩地村で、瀬田済之助が自縊した一件について、淀からの詳細な報告が届いていないため、報告が延引する旨の断わりである。
第102回は、忘年会をかねての例会として、『塩逆述』を離れて「落吟記」 を読んだ。また、安井浩二さんが「大潮がのせた海亀城の堀引くに退かれず 嘲う銭亀」と即興歌を披露された。
○「落首文芸史」井上隆明 高文堂新書 高文堂出版社 1978 出典・「藤岡屋日記」 1●大塩が書物を売て施行して、あとはむほんで何かわからん ○「落首辞典」鈴木棠三 東京堂出版 1982 出典・「浮世の有様」 2●大塩が施行するとて本売て跡が無本で何か分からぬ 3●大塩が船場へどっと打ち込みてその引潮のあとは白波 4●大塩の引いたるあとは川ざらえ下は砂持ち上は金持 5●これやこの行くも帰るも米の沙汰知るも知らぬも大坂の説 6●ちょっと出て颯と引いたる大塩が又も来るやと跡べ騒動 7●わが為か人の為かは知らねども切支丹やら何したんやら 出典・「天言筆記」 8●大坂に恐ろしきもの三つあり火矢大筒にとんだ平八 2●大塩が施行するとて本売て跡が無本で何か分からぬ 9●大塩が事の為にか我が為か切支丹やら何したんやら 10●どっと出てどっと引いたる大塩が又でようかとあと部案じる 11●平八の頭を切って万民の気も安うなる米といふ文字 ○「江戸時代落書類聚 中」東京堂出版 1985 12●石火矢にのぽりを見れば煙たつ民を救ふと書付にけり 8●大坂におそろしきもの三ツあり火矢大筒にとんだ平八 l●大塩が書物を売て施行してあとはむほんで何かわからん 13●大塩が人のためにか我がためか切支丹やら何したんやら 14●大塩にさはぎ立けり浪の華 15●大塩のあとへつけゐるしほひかな 16●大塩のまはつた魚のはらあけて匂ひうつぼの見世にさらさや 17●これやこのゆくも帰るも米ばなし知るもしらぬも大坂の説 18●塩焼のあとで奉行が味噌をつけ 10●どっと出てどっと引たる大塩が又でよふかと跡部あんじる 11●平八の頭をきつて万民の気も安ふなる米といふ文字 19●ほのぼのと難波の浦の朝焼に皆かくれゆく大塩ぞおもふ 20●世の米をしめて高直をはかるゆへこの大坂に火矢をゆるさじ ○「江戸時代落書類聚 下」東京堂出版 1985 21●うろたえる人に見せばや津の国の難波あたりの火事の烟りを 22●大塩が鉄砲酒をふるまふてみな人ごとに火矢でやらかす 23●大塩が船場へどっと打ち込んでその引潮のあとはしらなみ 24●大塩にゑらい跡部をかヾされてくそうあるやら城へにげこむ 25●己が為か人のためかはしらねども切支丹やら何したんやら 26●米の直を安う駿河守いんで跡はもやもや山んしうの守 27●難波がたよしかあしかは知らねどもからき目見せし大塩の波 28●平八も格も命につヽがなくこの大塩にふねでにげけり 29●夜をこめて土井の空寝ははかるともなに大坂の的はゆるさじ 30●与力して怨みの丈をやきつくし跡部野となれ山城となれ ○「江戸八百八町」川崎房五郎 桃源選書 挑源社 1967 替え歌 童謡 「ただすてた」 大坂天満のまん中で、大塩鉄砲うったげな、あんな騒動みた事ない。 大坂天満のまん中で、天章もどきでしてやった、あんなくせもの見たことない。 ○金さんざん、ただすてた。 大坂天満の真中で、さかさに馬からおっこちた、あんな弱い武士見たことない。 役高二千石ただすてた。 「かまやせぬ」 跡部は難波の御奉行様、大塩におわれてお色は真青だ おやかまやせぬかまやせぬ