Я[大塩の乱 資料館]Я
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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第11号』


1998.3.30

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

目  次

第104回例会報告 
はじめに
(10) 司馬介一件根本言上書

○「町かどの大塩平八郎 −大塩家の墓に花を捧げるひと−」 井形正寿
○「房総における大塩平八郎情報 ─人相書を中心として─」  佐藤文智
○「私の復習 塩逆述 巻五 十〜十四丁  現代文訳(案)根本言上書  司馬介一件」 荻野準造
○ 資料1『東成郡史』東成郡役所 1922 木村司馬之助 

第104回例会報告

はじめに

第104回例会(『塩逆述』からは第36回)は2月23日に開催、16人が参加した。今回は向江先生が欠席のため、井形さんをチュウターに進め、10丁から14丁までを読んだ。

(10)司馬介一件根本言上書

 これは、「公事御奉行所」に提出された代官根本善左衛門による「司馬之助」・「横山文哉」・「善源寺村の18人」及び「吉見九郎右衛門」の取調書である。つまり、代官支配地で捕らえられた大塩一党の調書を町奉行跡部山城守に提出したものを、「公事御奉行所」にも報告したものである。ところで「公事御奉行所」というのは何か疑問に出たが、例会のメンバーで明快に答える人がいなかったので、宿題として残った。

 では、個々の調書について見ていくことにする。

1 木村司馬之助

 猪飼野村の木村司馬之助は、本家権右衛門の倅熊次郎が入門したので、文政11年頃より大塩邸に出入りしていた。天保8年1月大塩平八郎から施行を頼まれ、2月14日に金1朱づつ、札30枚、15日には200 文、50人、札25枚を渡される。そして16日には連判状に署名している。18日夜に呼び出され、19日裏切りの知らせがはいり混乱の最中、恐ろしくなり自村に帰っている。3月2日召し捕らえられ、「酉3月7日於大坂牢舎格溜預、同5月18日病死、塩詰之死骸溜預」(『大塩平八郎一件書留』)られた。

 なお、『東成郡誌』(資料1)に記述されているので、該当箇所を載せておく。

資料1『東成郡史』東成郡役所 1922

2 横山文哉

 横山文哉(ぶんさい)については、幸田成友が「肥前国三原村の出生にて、文政4年以来東成郡森小寺村に住し、医を業とす。文政11年頃より中斎と知り合いになり、7、8年以前から妻の母うたを御針として大塩邸に起臥せしめていた。九右衛門、司馬之助、文哉の三人については、評定書吟味書中に「門人」とか「入門」という文字は見えぬ」(『大塩平八郎』)と簡単に紹介している。

 2月20日召し捕らえられ、「酉3月4日於大坂牢舎格溜預、同4月18日病死、塩詰之死骸溜預」(『大塩平八郎一件書留』)られた。

 幸田成友はまた「伝七、司馬之助、文哉、才次郎、志摩は実際暴行に加わらず、文哉のごときは応援の約束をしたこともないとある。これらを平八郎父子と同罪に処したのは、連判状に署名したという一事をもって理由としたのであろうが、酷と言わざるを得ない。」と評している。

 なお、文哉については、井形さんが以前に発表された「横山文哉と島原・三之沢村」をもとに詳細な報告をされた。史実の発掘という話を感動をもって聞いた。

3 善源寺村

善源寺村の惣八ら18人は、大塩邸内の溜め池を埋め立てる人夫としてやってきたが、鉄炮を打ち出しに怖れ、荷物を出すようにいわれた嘉助は葛籠を持ち出したが、門外から逃げ出す。残りは、葛籠を背負い、長持ちのようなものを担い、佐兵衛らは高麗橋まできたが、人足が逃げ出し、一同も逃げ帰った。2月21日から27日まで入牢、3月1日に出牢の上、村預けになる。『大塩平八郎一件書留』では喜八・嘉右衛門・嘉助の3人は吟味中病死と朱書されている。つまり、善源寺村の参加者は18名ということである。

4 吉見九郎右衛門母

吉見九郎右衛門は門人でありながら、乱に加わらず、息子英太郎と河合郷左衛門倅八十次郎に、自筆の訴状と檄文を持たせ、堀伊賀守へ出訴させた。19日当日、母を連れ、曽根村まつ方へ預けたが、その母も村預けになった。

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町かどの大塩平八郎 −大塩家の墓に花を捧げるひと− 井形正寿

 北区豊崎の南浜墓地には、大塩平八郎が先祖追善のために建てた墓などが三基ある。昨年、「大塩の乱のあとをたどる」ガイドマップを作るとき、南浜墓地の墓守のおばさんに大変お世話になったので、マップを差し上げる約束をしていたことを思い出して、彼岸中日の21日におばさんを訪ね、約束を果たした。

 その日、大塩家の先祖墓一群の東側に、大塩政之丞の子供の墓と思われる一基を見つけた私は、パチパチと写真をとっていた。暫くすると、突然、私の視野に60歳前後の女性が、大塩家の墓を清掃し、花と線香を捧げているではないか、私は思わず声をかけてしまった。

 女性は東住宅区桑津町のYさんだ。先祖のお墓詣りに来るたびに、大塩家の墓にもお詣りすることが、家代々の申送りとなっているというのだ。ご主人のお父さんは、戦前、北区芝田町や堂島浜通で当時としては時代の先端を行く自動車修理業などを経営され、地域の名士として活躍されていたようだ。

 今も健在の義母からは、大塩家の墓は、大塩平八郎自身の墓と聞いておられ、あの高名な大塩さんの墓が、なぜこのように小さいのだと疑問に思っていたと語っておられた。一緒に来ておられた息子さんともども、今後も子や孫に申送って大塩家の墓を守りたいと語られた。

Yさんとお別れした彼岸中日の午後の一刻、私は献花された大塩家の墓を、晴々とした気持ちで写真を撮り続けていた。 (3月21日記)

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房総における大塩平八郎情報 ─人相書を中心としして─ 佐藤 文智

(「論文集」に収録)
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私 の 復 習 荻野準造

塩逆述 巻五 十〜十四丁 現代文訳(案)
平成十年二月二十三日 井形正寿氏指導

根本言上書 司馬介一件


元石原清左衛門の御代官所で、現在私の御代官所である摂州東成郡猪飼野村 百姓 司カ之助の親 酉三月二日入牢 司馬之助

右の者を一通り調べた結果次の通り。 当人の本家に当たる権右衡門の枠、熊次郎が先年大塩平八郎方へ寄宿していた縁で、年始や暑中、寒中には挨拶に行っていた。ところが大塩平八郎から去る二月十四日に来るようにと言って来たので大塩方へ行ったところ、「困窮している者共へ金子を恵み与えるから村内の者共へ適宜見計らって分けてやれ」と言って金壱朱ずつの 施行札三十枚を金と共にくれたので受け取って帰り、村の百姓七兵衛に頼んで困っている者に見計らって分配した。翌十五日挨拶に行ったら又二十五枚くれたので、今度は二百文ずつ五十人に分配した。この挨拶のため翌十六日に再び行ったところ、中座敷という座敷に通し平八郎が入って来た。横に守口宿の幸右術門が控えて座り、平八郎が言うには
「自分より施行を差し出したが、町奉行よりは施行もしていないし、町奉行の許可を得べきものなので事によっては事件になるかも知れないが、その時には私の味方になってくれ。尤も叛逆等の訳ではない。御料私領共年貢が厳しいので、追々年貢も下がるよう取り計らい度く、百姓の為にもなるので、この書類に印艦を押すように」と、言って書類を読み聞かせた。文体は覚えていないが、「天下の一大事」或いは「味方同士互に助け合い」とか或いは「お指図の通り守るべし」などという文言があり、百姓の為になる事と心得て、「木村司馬之助」と自分で署名捺印した。 連判には、瀬田済之助、小泉渕次郎、渡辺良左衛門、竹上万太郎、守口宿幸右衛門、般若寺村忠衛門、弓削村利三郎、衣摺村八左衛門等、その他多勢の連判がしてあったが、すべての名前は覚えていなかった。

また、「騒動が起こったら早速三十人ほどを連れて馳せ参ずべし。そして、この計画を他言したら討ち殺すから、その旨心得よ。尤も又々施行のことについて、頼みたい事があるので、他十八日の夜に泊まりがけで来い」
と平八郎が言ったので、同日夜八時頃行って中座敷に控えていた。その日の夕裏れには渡辺良左衛門、守口宿の幸右衛門、弓削村利三郎、衣摺村八左衛門が来ており、酒や食事も出ていたので飲食したが、この者は間もなく横になった。奥の間等にはほかの人達もいた様子だが、誰彼の見覚えはなく、翌十九目明け方になって起きたところ、平八郎が慌ただしく出て来て、裏切りがあった旨を申し、傍にいた面々も奥の問に駆け込んだので、この者は恐ろしくなって逃げ出し、村方へ戻り村内の百姓、仁右衛門方に仏事があったので、同日正午頃より三時過ぎまで同人方に居たと申し立てた。

右の通り申し立てたので提出します。

    酉三月                        根本善左衛門
右の徒党一件のえち私の方へ召し捕った分は書面の通り、当月七日跡部山城守方へ差出しました。尤右の趣旨は公事方御奉行所へも申し上げました。之により右の写しを以て申し上げます。 以上
    酉三月                        根本善左衛門
◇
松平伊豆守領分摂州東成郡森小路村
     酉二月二十日召捕入牢   医師 文哉
右の者を一通り調べた結果次の通り。 右の者は肥前の国島原の内、三沢村の筆者卯平次の伜で、二十年以前に国元を出て医術の修行をした。十七ケ年程以前に摂州貝脇村の彦三郎の世話で森小路に住居して医業をしていた。下福島村の横超寺の娘を妻に貰い受け、子供三人が生まれた。尤も妻の母、うたを引き取って世話をし、家内六人で暮らしていた。 ところが今年の正月下旬、平八郎方へ立ち寄った時、施行札三十枚を渡されたので、村内の困窮している人達へ渡した。この挨拶旁々当月五、六日頃と覚えているが、平八郎方を訪問したところ、「この度宜しき計画があるので連判してくれ。」と一通の書き付けを読み聞かせた。文体はよく覚えていないけれども、文王武王の 御代にしようとの企てで、先生のお指図通り何事も背きませんという文意であったので「横山文哉」と自筆でしたため、押印した。前には般若寺村源右衛門と伝七も連判がしてあった、ということである。尤も当月十九日は、この二人は泊まっていたと聞いている。


私が代官を勤める摂州東成郡善源寺村の無高百姓 惣八、喜八、平右衛門、惣七、嘉右衛門、孫七、友七、弥助、義兵衛、清兵衛、伊三郎、佐兵衛、伊八、竹蔵、嘉助、甚兵衛、音次郎、熊次郎、

右の十八名は、酉の二月二十一日より二十七日まで入牢を命じて置いたが、三月一日出牢の上、村預けを命じた。右の者を取り調べた所、二月十九日朝、沢上村与右衛門伜、幸太郎が大塩平八郎方で砂持の仕事があるので出て来るようにと、淀川堤で聞いたので、又々施行でも出るのかと思い近くまで行ったところ、門内へ締め込み、鉄砲を打ち出したので恐ろしく思っているうちに、荷物を持ち出せと指図があり、嘉助か゜葛篭を持ち出しだが、門外より逃げ出し、その他の者は人数の内に挟まれ、葛篭両草鞋に長持のような物を担い、右のうち佐兵衛、熊次郎、伊八、音次郎は無事に高麗橋辺りまで来たが人足が荷物を捨て置いて逃げ散ったので一同逃げ帰ったと申している。


吉見九郎衛門の母

右の者、去月十九目九郎右衛門が召し連れて曾根村まつ方へ預けた由であるので、村預けを命じで置きました。

右の者共差し出しました。
    酉三月三日   根本善左衛門

右は徒党一件のうち私の方へ召し捕った分を書面の通り当月二日町奉行跡部山城守方へ差し出しました。 之により右写しを以て申し上げます。尤もこの事公事方御奉行所へも申し上げました。 以上
    酉三月   根本善左衛門

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