Я[大塩の乱 資料館]Я

玄関へ

会報一覧


『大塩の乱関係資料を読む会会報 第12号』


1998.4.27

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

目  次

第105回例会報告
(11) 清水殿代官ノ書
(12) 大澤氏記事

○「代官根本善左衛門」和田義久 
○「町かどの大塩平八郎 2 大塩の愛刀を作った水田国重 井形正寿│
○資料・武鑑抜、桐紋、代官一覧、国重刀図

第105回例会報告

   (11)清水殿代官ノ書

 清水殿とは誰かはっきりしないが、「当御蔵屋敷者」という文言から、堂島あたりのある藩の代官が書き送ったものと思われる。特に目新しい内容はなかったので、例会でも問題は出されなかった。ただ、「京往還筋」という言い方に疑問が出されたが、いわゆる京街道のことで、江戸時代にはこういう言い方はされて いたらしい。

 (12)大澤氏記事

 この史料は「大澤氏記事」と編者が表題をついているが、史料の最後で大沢雅次郎が「林祭酒社中」にて聞いた話をまとめた聞書で、平山助次郎の訴えの口上が洩れたものと記している。尤も『大塩平八郎一件書留』に収録されている平山助次郎の吟味書と内容が異なる点も多く、比較検討する必要性が指摘された。ま た、助次郎の訴えが基になっているので、自然彼の自己弁解が底流に流れている。その辺を史料批判しながら、事実を確認していく必要があるだろう。例えば、平八郎が弟子たちを呼び集め、計画を明らかにしたとき、助次郎が何かと質問し、ついに大塩が「燕雀安んぞ鴻鵠の志知らんや」と言い放ったというが、ほんとう だったのだろうか。

 なお、この言葉は「小さな鳥には大きな鳥の志はわからない。小人物は大人物の遠大な志を知ることはできない」という意味で、陳渉の言葉で『史記』に知るされている。また、「趣意ハ窮ヲ賑し貧を恤、之を第一申立候」と、謀反の趣旨を述べたというが、「賑シンキュウ は困窮者を施し助ける、恤貧ジュツヒン はまづしい ものをあわれみめぐむ」の意であった。(次号に続く)

代官根本善左衛門」を調べる 和田義久

 2月の例会で宿題となった「公事方御奉行所」について少しわかったことがあるので、報告する。まず、手がかりは差出人「代官根本善左衛門」と考え、そこから調べることにした。代官の呼称は幕府だけでなく、藩でも使われていたので、代官根本善左衛門だけでは幕府の役人か藩の役人かわからず、調べようがない。だが、前任者が石原清左衛門元代官所ということから、その人が幕府代官であったことが記憶の片隅のあったので、根本善左衛門は幕府代官であり、宛先の「公事方御奉行所」とは勘定奉行のことではないか、と例会の時に 発言した。しかし、自信がなかったので宿題としたものの、その後特に調べる方途も思い付かず、3月の会報にもそのことは触れずじまいであった。ところが、3月例会のあと、満藤久さんから「公事方御奉行」について『古語辞典』のコピーを送っていただいた。それには「勘定奉行の下にあって、幕府領内の訴訟をつかさどった」とあった。そこで、もう一度調べてみることにした。

 江戸時代の摂津・河内・和泉には幕府領が点在していたため、その支配のため勘定奉行の下に代官が置かれていた。幕府の代官については、村上直氏などの研究があるが、摂河泉の代官については、大坂市中の「鈴木町」と「谷町」に代官役所があった以外、ほとんど知られておらず、研究もされていないのが現状のようだ。

 そんなとき、以前に古本屋で購入した『江戸幕府代官資料−県令集覧』を思い出した。早速その本をひもといてみると、巻末に「天保六年江戸幕府郡代・代官所一覧」が資料として収録されていた。ではその原史料を調べようと中之島図書館で『江戸幕府大名旗本役職武鑑』第3巻にあたってみると、下記のとおり、天保6年のほかに『柳本枝 天保7年』に「根本善左衛門」のことが記載されていた。この史料によって、天保8年とは1年早い史料だが、その間異動はないので、根本善左衛門が大塩事件勃発当時は間違いなく、鈴木町の代官 であることがはっきりした。なお、参考として天保10年の近畿の代官の一覧を掲げておく。  差出人がはっきりすると、宛先の「公事方御奉行所」とは勘定奉行のことと推察される。勘定奉行を歴史辞典で調べると、「幕領の貢租徴収や訴訟の取り扱い、幕府財政の運営にあたった。幕府成立当初は老中との職務の別が不明確であったが、寛永19年農政・財政を専管する勘定頭がおかれ、元禄年間に勘定奉行と改称された。享保6年享保の改革で勘定奉行の職務が、年貢・普請関係を担当する勝手方と公事・訴訟を扱う公事方とに分離された。これによって勘定所の職制がほぼ確立し、以後、勘定奉行は常時4−5名が在職し、両部門そ れぞれ月番制をとった。」(『角川日本史辞典』)。

 このことから、天保8年2月の勘定奉行は、神尾元孝(公事)・内藤担佳(公事・勝手)・明楽茂村(勝手)・矢部定謙(勝手)の4人で、公事方は神尾と内藤の二人であったことがわかった(「勘定奉行」『国史大辞典』)。二人のどちらかかはっきり知らないが、この二人ではあるのは間違いなくなった。

───────────────────────

町かどの大塩平八郎 2
大塩の愛刀を作った水田国重 井形正寿

 『あるっく』という地元情報紙から大塩事件を記事にしたいので、会ってほしいという連絡がはいり、成正寺で編集長兼記者の井上彰氏に会った。  天満の町かどに語り継がれている大塩さんの話などどうかと誘い水を向けた。 “天満の語り部、いいですネ”ということで、大塩の愛刀を作った水田国重の子孫のことを私は紹介した。天神橋3丁目の刃物店「国重」は水田国重7代目の当主水田雄一郎氏で『あるっく』4月号にインタビューの記事になった。

 大塩愛刀の刀鍛冶師、水田国重と紀州侯お抱えの畠山大和介両名に、大塩は刀の鍛造を発注し、出来上がった2振の刀で天保2年11月28日に松屋町の牢屋敷で“試し斬り”が行われた。使い手は、国重の刀は東組同心上田半吾、大和介の刀は西組同心古市丈五郎によって行われた。この時、国重の刀がよく切れたたとい うので、大塩から激賞されたという。

 ところが、この試し斬りの2年後に再び大塩は国重・大和介に刀の制作を命じ、天保4年12月11日、さきの上田・古市両同心に矢張り“試し斬り”をさせている。

 この時、国重の刀には「一ノ胴裁断土壇払一寸余切入」、大和介の刀には「乳割土壇払一寸余切入」の試銘を金象眼でいれさせ、この刀を愛用していたようだ。

 いま、国重の刀は門真市の森田幸一氏が縁あって所蔵され、大和介の刀は東京国立博物館蔵となっている。  水田国重の刀は、大塩の愛刀として天満の町かどに今後も永く語り継がれるのではなかろうか。


Copyright by 大塩の乱関係資料を読む会 reserved
会報11号/会報13号/会報一覧

玄関へ