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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第13号』


1998.5.18

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

目  次

 第106回例会報告
はじめに
(12) 大澤氏記事(承前)

○根本・大沢関係資料
○疑問が残る堂々日本史 大塩の乱の歴史的位置付けに関連して
○私の書評 1 武藤功著「国家という難題」

第106回 例 会 報 告 

 はじめに

第106 回例会 (『塩逆述』からは第39回)は4月28日に開催、2人の新顔さんを迎え19人が参加した。最初に、4月14日に放映された「堂々日本史」について、向江先生から4点ばかりの問題点が指摘され、参加者からもいくつか感想が出された。その後『塩逆述』に移り、19丁から22丁まで読み進んだ。

(12)大澤氏記事(承前)

前回は、平山助次郎が師を裏切ることを決断し、いよいよ奉行跡部山城守へ密訴するところで終わった。
 さて、平山の訴えに、山城守は「暫時一言之挨拶も無之」、しばらくして、江戸表矢部駿河守へ事の子細を注進するよう命じる。そこで、平山は、少しの暇を請い、老母と妻に別れを告げる。これが助次郎にとって老母・妻との永遠の別れとなった。『大塩平八郎一件書留』には出てこない興味深い一コマを『塩逆述』は書き残している。

 この部分をNさんが現代訳されているので、紹介する。

 ところで、平山助次郎は、付き人として、「下役壱人上方ニ而猿ト申者、僕壱人」の2人を召し連れて江戸に向かった。『一件書留』では、「小もの多助召連立出候得共道中不案内ニ付、兼而懇意ニ立入候大坂谷町壱丁目清右衛門店弥助は道中通日雇相稼候ものニ付同人相雇」ったとなっている。下役とは多助のことで、 「猿」という蔑称で呼ばれ、同心の下っぱとして働いているところから、非人のことと思われる。このことについて例会でも問題になった。

  2月18日に大坂を立ち、江戸に着いたのが29日夜。矢部方へ罷出、山城守の書状を差し出し、訊問を受けたあと、大岡紀伊守にお預けになった。

なお、平山に対する判決は返り忠による宥免であった。『一件書留』では「存命ニ候得は引廻之上於大坂磔可申付処、改心いたし賊徒発起以前謀計之次第及密訴候ニ付、御仕置御宥恕之上、取来高之儘御譜代被仰付、小普請入」の付紙・朱書が付けられている。

平山助次郎の行動
月 日 事 項
天保8
正.8
「檄文」裏に連判する
2.15良左衛門が19日決行を知らす
2.16夜平八郎から呼び出し
2.17跡部山城守へ密訴
2.18暁七時、大坂表出立
2.23遠州今切渡しで大坂大火知る
2.29夜江戸着
3.1大岡紀伊守忠愛へお預け
12.25酒井大和守忠詞へお預け
天保9
6. 27
自殺(33歳)

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○根本・大沢関係資料○

 代官・根本氏の史料と、前からでてくる大沢氏は誰かという参考に。大沢氏は幕府の任についていたのではないかという推察です。

  ●根本善左衛門玄之
天保九戌四月八日  御代官ヨリ
同十三寅三月廿八日  来年日光山御参詣御用掛り
同十四卯五月晦日  御留守居番次席、勤候内七百俵高被成下
同年閏九月六日  於堀田摂津守殿御宅思召有之御役御免、小普請入、差控
注:「巻之六 勘定吟味役」『大日本近世史料 柳営補任2』東京大学出版会 1997 覆刻

  ●大沢弥三郎直行
文政八酉四月朔日  奥御右筆ヨリ同格同十二丑四月廿四日  本役
天保六未三月九日  年来出精相勤侯ニ付、百俵御加増
同九戌三月十六日  西丸御普請御用掛り
同十亥十二月廿日  五百石高御加増被成下
司十二丑四月廿四日  西丸御裏門番之頭
注:「巻之十六 奥右筆組頭」『大日本近世史料 柳営補任4』前掲書

○若年寄 わかどしより
徳川幕府機構の中では老中についで、重要な地位で、老中を年寄衆と呼ぶこともあるのに対して、次席ということから若年寄と呼ばれた。 老中と同じような仕事をし、老中が大名、朝廷に関する事務を行ったのに 対し、旗本、御家人に関する事務、その他相続、訴訟等一切の業務を行った。 定員は三〜五人で、老中同様月番制となっており、城を持たない譜代大名の中から任ぜられた。

○右筆 ゆうひつ
徳川暮府では、書記ないし記録係とでもいったような役柄。奥右筆と表右筆とに分かれており、世襲制であった。若年寄の支配に属す。 奥右筆は、中奥にいて将軍の側近に侍し、秘書官の役目をしており、文書 の処理、秘密政事の取調べなどを行った。 老中の文案を記録し、古例に徴して事の当否を決定する役で、機密文書を取り扱うから、非常に権威があった。定員は十三人。時代によって増減があり、幕末には四十余人いた。二百俵高。 奥右筆組頭は定員二人、布衣で四百俵高、御役料二百俵。御四季施代二十四両二分支給される。 表右筆は、表方の日記、分限、家督などの文書を取り扱うもので、政事に関する秘密文書などには参与しなかった。三百俵高で、役料百五十俵。
参考『江戸時代役職事典』川口謙二ほか  改訂新版  東京美術 1992
    『江戸役人役職大事典』新人物往来社1995
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私の書評 1  
武藤功著 国家という難題和田義久

 この書は、大塩事件を直接取り上げて、論じたものではない。藤田東湖と森鴎外が、どんな時代背景のもとに、自らの思想営為の途上で、大塩事件に出会い、何を学んだかを、解きほどいたものである。藤田東湖には『浪華騒擾記事』、森鴎外には『大塩平八郎』の著書がある。筆者自身は、「ここに二人の必死の問いを要約するなら、東湖の前にあったのは日本とは何かを問う国家の問題であり、鴎外の前に現れたのは国家にたいして個人の自由をいかに擁護するかのという問題であったというように言うことができる。この二人の問いにきっかけを与え、あるいは道標の役割を果たしたのが、偶然にも大塩平八郎という一人の政治反逆者であった。」とあとがきで書いている。

藩の枠を越えて日本全体を考えようとする東湖の幕末の政治論や鴎外の大逆事件と自らの筆禍事件を通しての個人の思想の自由といった問題提起があって、興味深かかった。それよりもまして、読み終えて実感するのは、私はなぜ大塩事件にかかわるか、改めて問われたような気がした。深尾才次郎や尊延寺の史料探しから始まった私の旅は、大塩事件の深淵に飲みこまれようとしている故に一層そう感じられた。

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○ 疑問が残る堂々日本史○向江 強
−大塩の乱の歴史的位置付けに関連して 「檄文」の思想の分析が理解の鍵−

「論文集」に 「疑問が残る堂々日本史」として掲載

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