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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第15号』


1998.7.27

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

目  次

第108回例会報告 
はじめに
(14)三月二十七日土井殿届塩賊焼死事 
(15)在番御番衆ノ書
 (16) 土井殿届
 (17) 水戸殿江奉書大塩風説
 (18) 二度目御目付代ヨリ届

○「大的」と「在番の城内禁足」「尼崎藩出兵」について
○代官・山本大膳について  その2
○刊行情報○『門真市史 第3巻 近世史料編』
○歴史セミナー・大塩平八郎を学ぶ 第2回 案内 
○資料・大的図

第108回 例 会 報 告 

はじめに

 第108回例会(『塩逆述』からは第41回)は6月22日に開催し、18人が参加し、27丁から33丁まで進んだ。

(14)三月二十七日土井殿届塩賊焼死事

 この資料は、国立国会図書館蔵版では「御月番水野越前守様へ」と題されており、大坂城代土井大炊頭から老中水野越前守への届で、大塩父子召し捕りの一件の報告である。事件以降杳として行方のわからなかった大塩 父子が油掛町の美吉屋五郎兵衛宅へ隠れていることが発覚、召し捕りにいったところ、大塩は隠居所に火を放ち、自害したというのである。公的文書のためか、目新しいことは記載されていない。

(15)在番御番衆ノ書

まず、「今日大的定日ニ付、御本丸へ出定日相始り居候内」の解釈の仕方で議論があった。

「大的」は歩射かちゆみの的の一種で、径五尺二寸(約158cm )の円形の的をいう。弓場始・公事始・奉射などの的として用いた。この的を射る競技をのことも「大的」という。また「定日」は「きまった日」という日である。

 この2月19日が「大的」の日であったのか、その日をいつにするか決める日であったのか、議論がわかれたが、保留しておくことになった。ただ、実際に大坂城に勤番していた人が見聞して書いているので、かなり信憑性は高い。『加番日誌』に出てくるのか、課題となった。 この資料の筆者は、城外の御役所へ詰めるのだが、それが東町奉行所の向かいというので、「御塩噌舂屋」と思われる。

 また、そこからは奉行所の様子がよくわかるので、28、9歳の大兵が生け捕りにされた連れて来られたことを目撃している。この大兵が誰かはわからない。

「御城代御定番加番衆大名四人両御番頭等」は、御城代(土井)、御定番(遠藤)、加番衆(土井・井伊・米津・小笠原の4名)、両御番頭(菅沼・北条)のことである。

(16)土井殿届

 土井大炊頭から老中水野越前守への届けである。

 この史料で注目されたのは、「安治川口御備場ニ有之大筒を以、所々打払放火及乱防候旨」跡部山城守から申達しがあったというが、安治川口御備場とは何か、またそこに大筒が備えてあったのかということである。初 めての見聞なので、その事実確認が宿題となった。

(17)水戸殿江奉書大塩風説

大塩の建議書は、箱根宿から三島宿の途中、塚原新田村で発見された。

 老中宛の封書は、正しくは「大久保加賀守・松平和泉守・水野越前守・松平伯耆守・太田備後守・脇坂中務大輔」であって、ここに記されている「林肥後守」は間違いと思われる。「但隔通也」について、例会ではわからず、宿題になった。後日満藤さんから「隔通」は「各通」ではないかの指摘があった。実際は連署であるが、風説では老中一人ひとり別々に差し出されたと理解されたのかもしれない、一つの考え方であろう。

 (18)二度目御目付代ヨリ届

 巻之一に「犬塚中川ノ書簡」があるが、それが一度目の届けになるのだろうか。

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−前回の宿題−
「大的」と「在番の城内禁足」「尼崎藩出兵」について

○大的について

先回の「在番御番衆ノ書」のところででてきた「大的」が宿題になりましたので調べてみました。乱発生の日が大坂城内で「大的」の「定日」だったという「事実」がでてきたのが興味深いところでした。騒ぎが起きて、中止になったということです。

『国史大辞典』では「大的」の項で、「歩射に用いる的の一種であるが、武者故実では、この的を射る競技のことを大的という」とあります。図もでています。

『摂営秘録』中村勝利 日本古城友の会 1978 p63の「城内庭其外様々之事」で、「一、奥大番所大的場あり」として、脚注に、「的場」の説明として「的をかけて、弓・鉄砲などの射撃を行う場所、現在天守閣の東、配水場のある所。」と書いてあります。大塩事件研究会の会員・志村清氏が作られた『大阪城総図』1974で見れば、御天守の東にある奥御番所の南側に弓場・馬場とあるあたりでしょうか。「物見」がすぐ北にありますから、物見の知らせもあったのかもしれません。天守台にのぼって火事の様子を見て大騒ぎになったのでしょう。

最近でた『大坂加番記録−安永九年八月〜天明元年八月、雁木坂加番京極高久−1』( 徳川時代大坂城関係史科集1)大阪城天守閣には、特に弓の稽古について触れたところはありませんでした。

また、徳川林制史研究所の松尾美恵子氏が『大阪春秋 34号』1982.11 に「大坂加番の一年−「豊城加番手控」−より」という論文を書かれていますが、弓の稽古日については触れていません。

○在番の城内禁足

この松尾氏の論文では、寺々への参詣は例外であるが、「加番が城外に出ることは原則としてできない」としています。

また、『大坂城の歴史と構造』松岡利郎 名著出版 1988 p121〜122 にかけて、大坂城内の生活に触れて、定め書の紹介をしています。内閣文庫蔵『大坂駿府御城内并日光御成御留守御黒印条目』によるもののようです。

寛永三年(1626)将軍家光は、城中条目に次のように定めています。


また、寛永十七年(1640)大番頭に対して発した3カ条の御黒印のうちに、

としています。また、3ケ条からなる次のものを発しています。

天保時代にこれがどこまで守られたかわかりませんが、城内の生活はかなり厳しいものがあったようです。これは、城内で生活していた武士は大坂三郷の事情にくわしくなかったのでは、ということの傍証としてどうでしょうか。1年で交替する職務で、非番のときも大坂の町にでることもできなかったので、大坂の地名などの記録のときにでてくる「と申す所」と伝聞の書き方になっているのではと思います。大塩の名前も知らない風ですから、1年限りの勤務で、大坂の事情について関心がなかったのかもしれません。

加番は4名の大名配置です。

○尼崎藩の出兵

尼崎藩の出兵「3千人」というのは多すぎるのは、という疑問がでましたのでこれも調べてみました。前には800人というのもありました。

松岡氏の同書では、p125で、天保年間のころの事情を書いたあと、「この時、元与力大塩平八郎は民衆の救済を大坂町奉行に献策したものの、その無為無策・豪商の妊智に憤慨し、天保八年(一八三七)二月、門下の与力・同心・近郷の有志とはかって決行蜂起し、市内の豪商や倉庫を襲って米や金を奪い、窮民たちに与えた。いわゆる大塩平八郎の乱で、幕府は大坂城から城兵を出動させて警備し、ただちに鎮圧させた。木田孝雄氏蔵『跋扈巨潮伝』には、尼崎城主松平家から一番手火事装束・二番手甲胄勢が応援に出て控え、城代の兵卒も鉄砲を構えて隊列を組んだ図が描かれている。この時、徳川時代になってはじめて大坂城が軍事拠点としての役目をはたしたが、外様大名ではなくて一般民衆のために立った大塩平八郎側がおさえこまれたのは皮肉である。」と結んでいます。

『尼崎市史 2』 尼崎市 1968 p887〜890 に大塩の乱に関わる記述があります。「大塩平八郎の乱と尼崎藩の派兵」という項です。 藩主は在府で、大坂城代の命で家老が派兵を決定したということですが、尼崎藩の動きは次のようなものです。

合計すると、尼崎藩からは、初日に800人、追加派遣をいれると900〜1000人が百姓も含めて動員されたようです。

摂津・尼崎は大坂に近いこともあり、緊迫した状況だったようです。

21日に大坂の火事はようやくおさまり、尼崎藩兵も大坂の蔵屋敷に引き上げ、蔵屋敷周辺は人であふれかえったということです。(N)

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代官・山本大膳について その2

先月の「読む会」の例会で、『歴史探訪に便利な日本史小典』(日笠山正治編 4訂版 日正社 1997 )を開いてみたら、「郡代・代官」の項に「山本大膳雅直」がでていました。支配地は「下野・上野・武蔵」です。天保10年の時点のものなので問題の「山本大膳」はこの方だったようです。支配高は13万4991石で代官の中で最も多い数値です。代官所は、上野・岩鼻にあり、一代限りだったようです。 この文献には出典が書いてありませんでしたが、『日本史用語大辞典 参考資料編』(柏書房 1978 )で確認しましたら、同じことがでていました。代官研究の大家・村上直氏作成の項です。

『歴史読本 36巻21号 特集天領』(新人物往来社 1991.11)にもやはり、村上直氏のまとめがありました。 603俵の知行ですから、多い方です。属僚も32人で、そのうち江戸詰が27人ということですから、「在府」で、江戸に常住していたのでしょうか。「役所」というのは、江戸のものだと思われます。

以上のことから、山本大膳は代官として重要な位置を占めていて、各種の情報についても集めやすい立場にいたようです。京屋というのは、有名な飛脚問屋ですから、絶えず情報を流していたと考えられます。

なお、山本大膳について、パソコン通信「歴史フォーラム・郷土館17番で情報をいただき、会報への転載をご了承いただきましたので、以下に収録いたします。山本大膳は関東取締出役の取締代官だったということです。 また、「出役」シュツヤク というのは『国史大辞典』では「他の職務を兼役する場合の職名で、一般には関東取締役出役の略称とされる。」とあります。

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○蒲桜仁兵衛氏の情報○

山本大膳は、関東取締出役であったようです。

関東取締出役は、文化二年、代官山口鉄五郎の建策によって出来たもので、勘定奉行の命により、関東四手代官(品川、板橋、大宮、藤沢)である早川八郎左衛門、榊原小兵衛、山口鉄五郎、吉川栄左衛門を取締代官に任命し、その配下の腕利きの手付、手代2名ずつを選び、計8名を関東取締出役(通称八州廻り)に任命した。この人数は、同四年には10人、同13年には、12人に増員された、とのことです。彼らは、2人1組で関東八ヶ国を、幕府直轄領、大名領(水戸藩を除く)、旗本領、寺社領の区別なく回村して警察権を行使し、無頼、博徒の取締まりを行ったとあります。幕府は、文政改革にて、関東取締出役の回村の効果を上げるため関東全域を対象とした対策を実施し、文政10年1月、取締代官として、山田茂左衛門、山本大膳、柑木兵五郎が任命され、その配下より、10人の取締出役が選ばれたようです。

うち2名が江戸詰めで遊軍的なもので、他の8名で関東八ヶ国を分割して担当したようです。

山本大膳配下の手代、河野啓助、太田平助は武蔵国を担当、その他には、当地域文書にて取締出役に提出した文書(下石戸上 吉田眞士家文書六九)にて「天保五年三月 下石戸上村夫食有無書上帳」(下石戸村に食料がどれだけ残存しているかを調査し取締出役に提出した文書)の宛名には、河田啓助とともに、堀口与四郎も手代として名があがっております。

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○ Fum氏の情報○

以前コピーした論文に「関東取締出役太田源助の活躍について」というものがありました。主に相模国を中心に活躍していた太田源助という関東取締出役について御用留などからその活動内容を追ったものです。太田源助の前職は、山本大膳の御手附という役職です。犯罪の捜査、禁令の取り締まり、安政大地震の調査などをおこなっていることが分かります。問題になっていた、どこから触れなどを出していたかという点は明らかにされていませんが、捜査・調査などが仕事となっていたせいか、太田源助の場合は、宿に滞在して調査をおこなったりしていることもあるようです。

関東取締出役の実態に関しては、まだ不明な点も多いようです。

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○刊行情報○
『門真市史 第3巻 近世史料編』門真市 平成9.3

 第7章に「大塩事件」があてられ、「第1節 茨田家の始まり」、「第2節 茨田郡士の登場」、「第3節 郡士栄信と大塩事件」、「第4節 事件後の茨田家」、「第5節 大塩事件と茨田家・高田家」の5節にわけ、史料が収録されている。ページ数にして約100ページ、ほかに5ページほどの解説がついている。担当は、藪田貫関西大学教授。門真三番組の茨田郡士と高橋九右衛門の出身地である。(和)

歴史セミナー・大塩平八郎を学ぶ 第2回


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