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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第17号』


1998.9.28

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

目  次
第110回例会報告
 はじめに
(24) 施行切手
(25) 大皐氏ノ書
(26) 河新ノ書

○「護送される大塩父子と五郎兵衛」 井形正寿  
○「大塩平八郎の映画」
○ 私の書評 2  岡田誠三著「雪華の乱」
○資料・「大塩事件処分一覧表」
○歴史セミナー・大塩平八郎を学ぶ 第4回 案内
○大阪市内の大塩遺跡を訪ねる 案内


第110回例会報告

はじめに

 第110回例会(『塩逆述』からは第43回)は8月24日に開催し、初めての方4人を含め20人が参加し、40丁から45丁まで進んだ。向江先生休みのため、井形氏がチューターを務める。

(24)施行切手

 救民策を退けられた平八郎が、蔵書を売り払い、その金で1万人に1朱づつ施行した。そのときの施行札である。特に問題点はなかった。

(25)大皐氏ノ書  史料の2行目から3行目にかけて「此間より根岸へ廻す」とあるが、この「此間」が人を指すのか場所を指すかで議論になったが、結論はでなかった。

「当地之評判玉造遠藤並松平遠江守宜敷御座候」と、遠藤但馬守と尼崎藩の評判がよかったと書いている。遠藤但馬守について、井形さんから但馬守は乱の起こる前森之宮神社へ鳥居を奉納しているとの紹介があった。

 なお資料5〜6行目の「自分家蔵も焼レ候ても大塩之事承り悪く不申由扨々変成人気」の部分を、岡本良一著『大塩平八郎』に引用されていると例会で紹介しましたが、私の記憶違いであることをこの会報を纏めている段階で気がつきました。訂正しておわびいたします。岡本氏の引用は「大塩の悪口は余りこれなく、それゆえか町内へ大塩を褒め申す間敷とのお触れこれあり(『塩逆述』)」とあります(創元社昭和50年刊、P160)。これは、『塩逆述』巻六上の「蔵屋敷よりノ書」27丁にあって、巻六上の釈文作成のため同時並行して巻五と巻六を読んでいたため、記憶の混同をきたしたようです。

(26)河新ノ書

 この史料と(27)河内屋新次郎ノ書は、『編年百姓一揆史料集成 第十四巻』に「大阪北久太房町*河内屋書状」として収録されている。『塩逆述』では宛名は省略されているが、『史料集成』では「小林様 御用人中様」となっている。また日付けから判断して、(27)の方が先に出されたであろう。

この書簡は、油掛町での大塩父子召捕りについて報告したものである。手代らが高原溜へ連れられる大塩父子を見かけ、「乗物の前後ニ大成木札ニて大塩某腹切と書付、小児ニ而も見え候様ニ書付有之候由」とその様子を書き留めている。しかし、大塩父子が行方知れず、人びとの気も不安だったので、大塩が捕まったことを知れることを「御仁政」と評価するのは、大塩を英雄視する贔屓筋と相反する評価である。また、「大塩腹切」と木札に書き付けてあったというのは新説である。大塩護送について、後日井形さんから資料の提供があった。

 また「(私共)早く御赦免も可蒙と祈居候事ニ御座候」というのは、新次郎は容疑者扱い(「町預け?」)の自分は、大塩父子の召捕りで事件は解決したので、早く容疑を免じてほしいという心境が表現されている。なお、新次郎は、他の3人とも「急度叱」の刑を受けている。

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護送される大塩父子と五郎兵衛井形正寿

 大塩父子と美吉屋五郎兵衛は油掛町から上町高原仮牢へ駕籠にて護送されますが、その扱いが異なっています。大塩父子の駕籠には縄が掛けられ、駕籠の上に大小の刀が乗せられています。たれは下げられ、「大塩平八郎骸」札を立てられています。それに対して五郎兵衛の方はたれが上げられています。「油掛町美濃屋五郎兵衛宅より大塩父子骸并五郎兵衛召取上町高原仮牢江引取」『大塩実録』(天理大学附属天理図書館蔵)より

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大塩平八郎の映画

○映画「大塩平八郎」大正3年

『日本映画作品辞典 戦前編 1』日本映画史研究会 科学書院 1996 にでていました。あまり長いものではなさそうです。大正時代ですから、明治の講談本を原作にしたものかもしれません。この映画について、どなたかご存知の方はないでしょうか。主演の方が有名ですから、どこかに残っているかもしれません。

大塩の映画ということでは、『大塩平八郎を解く』 大塩事件研究会 1995 の「文学や演劇にとりあげられた大塩」の項で、「風雲天満動乱」が紹介されています。

新東宝/製作 嵐寛寿郎/主演です。(昭和22年と書かれていますが、昭和32年の製作です。)若き日の丹波哲郎が平山助次郎役だったと思います。 こちらは、前に島田さんが『大塩研究』に書かれています。前・後2本でビデオもでているので、見たことがあります。それぞれ1時間くらいのです。史実はかなりいいかげんですが、嵐寛寿郎が大塩のイメージにぴったりのものでした。飢饉にあえぐ大坂の町の様子は印象的でした。病弱の大塩平八郎が、いつも恰幅のいい肖像画でイメージされるのは、いかがかと思いますが、「マップ」でも結局あれが採用されました。

人相書では「顔細長ク」、「中肉」となっています。 (N)

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歴史セミナー・ 大塩平八郎を学ぶ 第4回
                              
   とき10月3日(土)午後2時〜4時 
   ところ  大阪府教育会館         
           大阪市天王寺区東高津町7-11
           近鉄上本町駅 地下鉄谷九駅
   テーマ   「檄文を読む」            
   こうし   向江 強氏      
   参加費   1000円            
                大塩事件研究会
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大阪市内の大塩遺跡を訪ねる

   日時 9月26日(土)12時30分
   場所  天理教飾大分教会に集合  
   コース   大塩平八郎終焉の地碑→大塩家先祖墓→成正寺→洗心洞跡など
            →秋篠昭足墓→千日墓地跡→飛田墓地跡    
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私の書評 2
岡田誠三著 「雪華の乱」和田義久

 岡田誠三なる作家については全く知らない。『作家・小説家人名辞典』をひもとくと、大阪出身の朝日新聞社の記者で、昭和19年『ニュ−ギニア山岳戦』で直木賞を受賞した作家であることを知った。大阪出身というだけで、岡田誠三と大塩平八郎を結ぶものは何もない。ただ、昨年福島区歴史研究会で「大塩」を開催したとき、展示リストに井形氏の岡田誠三の作品『自分人間』上がっていたことを思い出し、大阪府立図書館で借りて読んでみた。それは誠三の父なる「岡田播陽」の評伝で、「大塩平八郎中斎という名を聞くこともなく聞いて育ってきた」というほど、岡田播陽は大塩を贔屓にしていたという。そのこだわりが、岡田誠三に大塩平八郎に関する一冊の本をものにすることになったらしい。

ところで、岡田誠三『雪華の乱』は、「1門人 橋本忠兵衛」「2受刑者 藤田顕蔵」「3友人 大蔵永常」「4奉行 跡部良弼」「5 密訴人 平山助次郎」「6城代 土井利位」「7同僚 坂本鉉之助」「8門人 弥七」「9同僚 内山彦次郎」の9章からなっている。この章たてからもわかるように岡田は、平八郎の周辺にいる人物を描くことによって平八郎と決起に迫ろうとした。この方法は平八郎を真正面からとりあげられてないだけに、平八郎の描きかたにものたらなさはのこるものの、小説としては成功していると思う。 私の関心からいえば、2の藤田顕蔵と3の大蔵永常は興味深かった。藤田は、三大功績の一つにあげられるキリシタンについて、「女陰陽師ら新興宗教を切支丹一味として弾圧したものであるが結果はが切支丹一味ではなかった」と近年、否定的な評価がされている。しかし、藤田が蘭書を求めたために一味につながって処罰されたことを考えると、切支丹ではなかったといいきれるかどうか疑問である。

 もう一人大蔵永常である。大蔵と大塩が友人として繋がりがあったことをこの本で初めて知った。大蔵については『農具便利論』の作者としてその名を知っているぐらいで、その生涯については全く知らなかった。また大塩関係の本もこの数年読み始めたばかりなので、誰かがどこかで論じられていたのかもしらないが、目にすることもなかった。橋本忠兵衛にほうづきの栽培を教えたのが大蔵永常であったと小説ではなっているが、史実なのだろうか、調べてみる必要がありそうだ。


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