発行人 向江強/編集 和田義久
目 次 第26回例会報告 はじめに
(3)大坂無名氏之書付(承前) (4)御舟手本多ノ臣ノ書 (5)幸右衛門書状 ○「荻生先生を囲んで」の感想 和田義久 ○資料・幸田本より白井の項抜・焼失町名 組割・読みなど
はじめに
第26回例会は3月24日に開催、14人が参加した。向江先生が欠席のため、野市氏にチュータ役を受け持っていただき、5丁から15丁まで進んだ。
読み始める前に2月例会での宿題に関して、Nさんから4点について、B4判2枚にわたる資料提供があったので、報告していただいた。報告は、例会で関心をよんだ史料「大坂騷動始而申来書留」に集中した。
史料には「御勘定奉行同吟味役言計居残、七ツ半時弐寸五分前退出」と出てくる。これは、「尺時計」による時刻の表し方で、七つ時と7つ半のちょうど半ば、今の4時半ごろにあたる。8つに退出が普通なのが、少し居残り4時半ごろ帰ったと考えられる。
2「誰が書いたか」
御同朋頭という役職は、幕閣より伝達する公文書、または諸大名諸役人から上申する書類を掌る役で、配下に御同朋、奥坊主、表坊主がいた。定員は4名で、『塩逆述』の記録の主かもしれないと推察されている。大胆な仮説当否の判断はつきかねるが、この「大坂騒動始而申来書留」に関するかぎり推察は当たっているような気がする。 みなさんはどうでしょうか。
3「公家は江戸に常駐していたか」
2/25に年頭参賀の勅使・院使の公卿が江戸に参着。2/27に勅使徳大寺大納言、日野前大納言、院使藤谷宰相が大御所家斉・将軍家慶と対面。2/28饗応の猿楽。3/3公卿発途。これは『徳川実紀』(国史大系49)からの抽出であり、前号でも紹介した。
4「乱当時の幕府閤僚」
老中・若年寄・寺社奉行・京都所司代・大坂城代・勘定奉行・江戸町奉行・大坂町奉行・長崎奉行について、在職年代・在所藩名・前職・後職を調べていただいた。
(3)大坂無名氏之書付(承前)
2月19日暁七ツ時、吉見永太郎と河合八十次郎が西町奉行に出訴、家老中泉撰司から事の次第を聞いた堀伊賀守が跡部山城守へ知らせるのだが、この手配をこの史料の書き手である堀伊賀守の家来が行なったようだ。両町奉行揃って捕り方を差し向ける手筈であったが、東町奉行所では大塩与党の瀬田済之助、小泉渕次郎が泊番であったため真相を糺そうとして逆に事の露見を察せられ、渕次郎を切り倒したものの済之助には逃げられ、平八郎に注進させてしまった。「此始末無之候ハヽ、手筈之通り此方より押掛可相潰処残念之事」とくやしがって いるのも頷けるところである。
(4)御舟手本多ノ臣ノ書
本多大膳成孚は天保7年4月から御船手(御船奉行)に就いている。3200石で、与力6騎・水主五十人が配下に属していた。
ところで、この史料では「大坂出火焼失場」とて町名が記されているが、間違いが少なからずある。Nさんが正誤を交えた一覧表を作成されたので、P4(資料l)に掲載した。
(5)幸右衛門書状
京都伏見で捕まった守口町の白井幸右衛門の自白状である。幸右衛門と同道の杉山三平の召捕りの経緯は、幸田成友『大塩平八郎』に譲って(史料2)、ここでは自白の内容を簡単に紹介する。
一 徒党・焼打の人数
およそ5、60人
一 数百人になった理由
村々ヘ施行した際、合図の太鼓が鳴ったら、天満与力町へ来るよう指示しておいた。
一 何を合図に太鼓を打ったか
天満与力町の出火を合図
一 いつごろ連判及び焼討を計画したか
正月16日に連判し、焼打は2月27、8日から3月1、2日ごろの闇夜とする。
一 なぜ急に19日に焼打をしたか
露見したと察したから。
一 焼打するに至った経過
諸国の米が高くなるが、奉行の政策は庶民に行き届かず、人は難儀している。天神も神力にて人を救うことがかなわない。神力が強いか、平八郎の運が強いか、二つの勝負と、天満宮へ鉄炮を打ち込み、所々を焼打にした。 夜半になって、大塩は火の中に投身しようとしたが、再応の勧めに従い姿を消したので行方はしらない。私は懇意の寺にて衣袈裟を借り京都を目ざしたが、伏見で召し捕られた。
一 三井を焼打にした理由
三井は表向きl万両の施行の約束をしながら、奉行所と相談の上断ってきた。奉行所から不審に思われた。施行に協力する気がないなら、最初から断わるべきだ。三井は貪欲と大塩は非常に憤っていたという。
一 鴻池に対する遺恨の理由
昨年大坂への米入津がなく米高値になった折、政商が大名への御用金を断われば、大名は大坂で米を売り払うことになるので、協力を求めた。ところが、鴻池は私欲に目がくらみいつもより大金を用立て、米の入津がなくなり、ますます米高値になった。
自白の内容をそのまま受け取ることは危険で、今日では自白調書だけでは起訴できない。まして確信犯においては、真実をあえて語らず、嘘の供述をすることさえある。といって、すべてを否定すこともできない。そこに自白調書を読むときの難しさがある。
では、幸右衛門の自白はどうだろうか。私は、幸右衛門の自白に嘘はないと思う。三井や鴻池を焼き打ちした理由など、大塩与党の共通の認識だったこと思われる。
興味深かったのは、神力か大塩の運かと神に迫り、天満宮を焼打にしたことだ。このような二者択一の発想は、陽明学に由来するのだろうか。知りたいところだ。
「荻生先生を囲んで」の感想 | 和田義久 |
「研究者の間で陽明学会といった研究会があるのか」、「陽明学派の位置づけについての中国と台湾との差異」、「陽明学派における石崎東国の位置づけ」、「陽明学と日蓮宗との関連」など、酒席をも顧みず、日ごろ疑問に思っていたことをお聞きしたところ、丁寧にお答えいただいた。
何分酒席での話で、メモを取らずにお聞きしたこともあって、不確かな記憶をたどって再現して、聞き違いがあってはと思い質問の答えは又の機会にと思っています。
塩逆述巻之四 正? 天満組 北組 南組 川崎村 備考 1 天満与力町 与力町 ヨリキチョウ ○ 2 今川町 今井町 イマイチョウ ○ 3 長柄町 ナガラマチ ○ 4 善庵筋 善安筋 ゼンナンスジ 宝暦町鑑にカナと漢字 5 鈴鹿町 スズカマチ ○ 6 御祓町 御祓筋 オハライスジ 7 持薬町 典薬町 テンヤクマチ ○ 8 骨屋町筋 内骨屋町筋 ウチホネヤマチスジ 9 板橋丁 板橋町 イタバシチョウ ○ 10 唐崎町 カラサキチョウ ○ 11 釣鐘町 ツリガネチョウ ○ 12 岩井町 イワイチョウ ○ 13 内平野町 ウチヒラノマチ ○ 14 立町 石町 コクマチ ○ 15 内淡路町 ウチアワジマチ ○ 16 河田町 河内町 カワチマチ ○ 17 錦町 ニシキチョウ ○ 18 濃人町 ノウニンマチ ○ 19 北軒町 北新町 キタシンマチ ○ ○ 北組1、2丁目 南組3丁目 20 滝川町 タキガワチョウ ○ 21 徳井川 徳井町 トクイチョウ ○ 22 内本町 ウチホンマチ ○ 焼けていない? 23 天神社 24 宮前町 宮之前町 ミヤノマエチョウ ○ 25 千葉 船場 センバ ○ ○ 北組 北船場 南組 南船場 26 菅原川 菅原町 スガハラチョウ ○ 27 北浜町 北浜 キタハマ ○ 28 旅籠町 ハタゴマチ ○ 29 今橋町 今橋 イマバセシ ○ 30 越後町 エチコ゚マチ ○ 31 高麗町 高麗橋 コウライバシ ○ 32 天神筋町 テンジンスジチョウ○ 33 本王寺町 東西寺町 トウザイテラマチ ○ 東寺町 西寺町 34 堀川 堀川町 ホリカワチョウ ○ 35 道修町 ドショウマチ ○ 36 平野町 ヒラノマチ ○ 37 淡路町 アワジマチ ○ 38 瓦町 カワラマチ ○ 39 備後町 ヒセンゴマチ ○ 40 西境筋 西堺筋 ニシサカイスジ読みなどは『角川日本地名大辞典』による。