発行人 向江強/編集 和田義久
目 次 第27回例会報告 はじめに (6)京町奉行触書 (7)天満組図并平八郎印章 (8)橋本清七差出 (9)大坂屋茂兵衛之書 (11)越後屋文書 ○「ゼンアンスジとゼンナンスジ 善庵筋と善安筋について」 荻野準造 ○「伏見船宿夜厳重之有」の謎をさぐる
はじめに
第27回例会は4月28日に開催、人が参加し、15丁から21丁まで進んだ。
読み始める前に4月例会での「焼失町屋」についてNさんの報告(会報2号参照)があった。また、荻野さんの「ゼンアンスジ・ゼンナンスジ」関する調査が報告された。
(6)京町奉行触書
国立国会図書館蔵本での表題は「京都町奉行触及前書」となっており、本文が前書と触書の二文から構成されいることから、京都町奉行の触書の前書として理解できそうである。しかし大坂市中をはじめ街道筋、とりわけ淀川筋のの取締りを伝える前書の内容からして、京都町奉行の手になるものはないような気もする。
さて、この史料が伝える取締の厳しさは今まで余り知られておらず、参加者の関心を呼んだ。特に淀川を上り下りする伏見船・淀船・三十石船(過書船)に対する取締は厳しく、乗客の名前・住所と行き先の名前、住所及び用向きを書かせ、また通い船を含め上下する船はすべて淀・枚方・その他3、4か所にて改めがあったという。
なお、文中「伏見船宿夜厳重有之」について、昼夜別なく取締るはずだから、「宿」は[昼]の書き写し間違いで、「伏見船昼夜」と読むべきであろうと解釈された。それに対し、淀川通い船の乗客は伏見船宿をよく利用するのでここは原文通り「伏見船宿」と理解すべきではないかとの意見が出された。
解釈は自由に、あまり決めつけなく理解した方がいいということで議論を打ち切った。
(7)天満組図并平八郎印章
天保8年八朔改正の「浪華御役録」による「与力町絵図」及び「天満組屋敷略図」が載せられている。年2回発行の「浪華御役録」がいつから発刊され、現在資料館・博物館・図書館にどのくらい残っているか知らないが、大塩研究だけでなく、大坂の近世を調べる上でも欠かせない史料なので、だれもが利用できるように全部を網羅した本を出版してほしいものだ。
大塩の印章については、向江先生が『必携落款字典』を持参、回覧されたので、個々に印章を確認することができたが、「□紅励淑」は初見ということであった。
なお、Nさんから『日本書画落款印譜集成』の大塩の部分を提供いただいので掲載する。(史料1)
(8)橋本清七差出
「橋々者天神橋・今橋・高麗橋・平野橋・思案橋切落し申候」とあるが、天神橋は町奉行所が切り落とし、今橋・高麗橋・平野橋及び葭屋橋は焼失した。思案橋は焼失していない。
(9)大坂屋茂兵衛之書
特に関心を引いた事項が記されていなかった。
(10)越後屋文書
この史料について、差出は大坂か江戸かで議論が別れた。1〜2行目の文言から、被災見舞いの礼状だから当然大坂からという見解に対し、大坂と江戸に店を構え、大坂店の被災に対して江戸店への見舞いを下された方への江戸店からの礼状ではないかとの疑問がだされた。
差出人「越後屋店」が、かの三井呉服店のことであれば、大坂にも江戸にも店を構え、しかも大塩の焼き討ちにもあっているので辻棲があいそうだ。
いずれにしても、重太郎・友七が特定できれば、明らかになると思われる。
ゼンアンスジとゼンナンスジ 善庵筋と善安筋について | 荻野準造 |
貞享3年(1686) | 表示なし |
元禄元年(1688) | 表示なし |
享保15年(1730) | 表示なし |
寛延2年(1749) | 表示なし |
宝暦2年(1752) | 表示なし |
寛政9年(1797) | ゼンアンスジ |
弘化2年(1845) | ゼンアンスジ |
文久3年(1863) | ゼンナンスジ |
明治12年(1879) | 表示なし |
明治14年(1819) | 善替筋? |
明治14年 新撰大阪市中細見図(中之島図書館蔵)には、「善替筋」とあって、「庵」にはみえない。
「伏見船宿夜厳重之有」の謎をさぐる |
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近世の淀川には過書船、淀二十石船、伏見船などが上り下りしていました。
過書船の番所は伏見京橋・納所・枚方・大坂などにあったようです。
伏見豊後橋を出た三十石船は、半日または半夜で天満八軒家に着き、上りはl日または1晩で伏見に着いたそうです。大坂の乗船場は八軒家・道頓堀・東横堀・淀屋橋、伏見での乗船場は京橋・蓬莱橋。阿波橋・平戸橋のそれぞれ4か所でした。(近畿地方建設局『淀川百年史』)。
元禄11年(1698)に免許された伏見船200艘は宝永了年(1710)に停止され、亨保7年(1722)再び許可を得、「大義より夜船にて上らば、伏見に於て天明を待ちて船を着け、………」という一項を加えた「掟書」を伏見奉行北条遠江守から与えられます。
この掟が天保のころまで守られていたかどうか不明です。このあたりは、過書船との商売争いがからまっています。伏見船は15石、過書船は30〜100石の大きさで、小回りのきく伏見船が猛威であったようです。(『京都の歴史 5 近世の展開』)
伏見は、京都の公家との接触をきらった幕府の政策で、大名の参勤交代の立ち寄り地でもあり、宿場町として賑ったようです。
幕府の直轄地として伏見奉行は大名格の徳川氏直系のものが任命され、大坂町奉行より重要視されていたと思われます。30万都市の京都が1000石級の旗本であったことからもそれは推察できます。
伏見城があった時の初代の伏見城主は久松松平の定綱で5万石、のち桑名に10万石で移封されます。廃城になってからは伏見奉行が京都の南の陸海の要地を管轄しました。代わりに淀城が築かれますが、これも定綱の手で始められました。初代伏見奉行は、小堀遠江守政一(小堀遠州)ともいわれますが、水野石見守忠貞のようです。小堀の屋敷が奉行所としてのちまで引きつがれています。伏見奉行の配下は、与力10騎、同心50人、牢屋敷も管理下に置きました。
伏見は人ロ3、4万、橋は57。うち公儀橋は豊後橋、京橋、肥後橋、直違橋、常円橋、六地蔵橋。豊後橋は今は観月橋として知られていますが、大和街道の起点で、長さ206m、幅8m。京橋は町の中心にあり、長さ43m、幅8m。肥後橋は、大坂街道を淀方面に渡るときの重要な橋で、長さ30m、幅8m。大層立派な橋です。高札場は公儀橋ほ8か所、京橋のものが最も重要視されたようです。京橋周辺には40軒以上の旅籠、十数軒の船宿が軒を並べていました。この船宿からでる船は大坂の特定の船宿に着く事になっていました。伏見港といわれるのはここのようです。
『都名所図会』には「伏見船場」の図があります。京橋の賑わいを『都名所図会』はこう記しています。
『伏見大概記』享保13年 には過書舟742、淀上荷船507、高瀬舟128、伏見茶舟11、伏見砂取船95あったとされます。これ以外に伏見船200、また巨椋池の漁船などもあるので、大小1800以上の船がこのあたりを通っていたと思われます。これらがすべて伏見に繋留されていたとは思えませんが、その賑わいのほどが想像されます。(伏見町『京都府伏見町誌』、松村博『京の橋ものがたり』、『京都市の地名』平凡社、『角川日本地名大辞典』)
こう見てくると、『塩逆述』の記述の背景が見えてきます。警護には多数の人手を要したこと、厳しい警戒は交通の要地であり、当然の措置であったこと。豊後橋でつかまったのもこの警戒では無理なかったであろうこと、ひりひとりの荷物まで改めていたのでは、それでなくとも、人通りが多いとこでは大変だったろうと思います。こんなに伏見に船が多いと思いませんでした。
ただ、「廿三日迄徒党之内何分二も相知不申候二付、伏見船宿夜厳重有之・・」というのがはっきりは見えてきません。20日に2人仲間がつかまり、また伏見に立ち回る可能性が高いと考られたことは十分想像できます。2人が捕まったのは別々のようですが、いずれも夜中でしたから、夜はことさら厳重だったようにも思います。といことで、昼も夜も厳重であったようですが、夜陰にまぎれるおそれから、夜はもっともっとだったというふうに思えてきました。(N)