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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第28号』


1999.8.30

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

 
    目   次

第121回例会報告 
(8)岡部氏固人数書
(9)中川氏添書
(10)京都奉行回章
(11)所司代より御鉄炮奉行達
(12)京両番奉行より御門番江達
(13)御門番頭より届与力江
(14)上田五兵衛より京西御門番頭江書

○「ノ」の一文字    満藤 久  
○99年歴史セミナ− 第3回「江戸と大坂」

 第121回例会(『塩逆述』からは第53回)は7月26日に開催、17人が参加、巻之六下の11丁から19丁まで進んだ。

(8)岡部氏固人数書

 岸和田藩の出兵人数書であるが、総数が記されていない。別の岡部内膳正の届けでは、一番手は、「物頭2人、大目付1人、賄役之者1人、外郎1人、右以下小役人・足軽等都合2百余人」、二番手は「番頭1人、物頭2人、大目付1人、賄役之者1人、侍50人余、外郎1人、右以下小役人・足軽共都合4百人」となっている(「塩賊騒動記『大阪編年史』第18巻P289)。つまり、一番手は 200人余、二番手は 400人であった。

 なお、岸和田藩の動向については詳らかにしないが、松浦木遊さんから提供いただいた野上長栄編『岸和田藩志』(大正6年)から抜き書きして確認しておく。

 (9)中川氏添書

 中川氏とは、御目付中川半左衛門のことかはっきりしない。大塩軍の大筒に記された一党の姓名と陣備えが書かれているが、人名など間違いが少なからずある。

 口薬とは「火縄銃の発火用に火蓋のところにおく火薬」である。矢弦とは文字通り矢・弦のことか、或いは「薬研」( やげん) の書き間違いか。

 (10)京都奉行回章

 大塩一党が京都に逃亡してくるかもしれないので、万一怪しい者がやってきたら、召し捕らえるように大坂城代から京都所司代松平伊豆守に申し渡しがあった。その意を得て京都町奉行梶野土佐守と佐橋長門守が連名で出した達しである。

(11)所司代より御鉄炮奉行達

 大塩一党が神峯山寺に立て籠もったとの噂があるので、京都町奉行らは鉄炮を用意して出馬するつもりなので、合薬50貫目を渡すように京都所司代が鉄炮奉行に命じた。合薬を何に入れたいたか、問題になったが、『大阪編年史』にその図が載っていたので紹介します。

【図 略】

「夢の跡浜の松風」『大阪編年史』第19巻P24

 (12)京両番奉行より御門番江達

 これは、二条城御門番之頭から門番への達しだが、三輪清右衛門が鉄砲の合薬を取りに入城するので、心得て置くようとの指示である。参考に京都所司代の支配を図示しておく。

 なお、二条城御門番之頭は、定員2名で、その配下に与力10騎、同心30人ずつついた。

 (13)御門番頭より届与力江

 京都二条城や京都町奉行の役職者の姓名がわかっておれば、文意の理解にも役立つのだが、その資料が手元にないので定かでないが、差出人の与力とは、京都町奉行の組与力のことと思われる。

 「太鼓撃延」とは何を意味するか、例会では答えがでなかったが、太鼓で閉門の時刻を知らせたのではないか。御番頭が京都所司代の所へいったので、太鼓の撃切りが酉の五刻から六半まで撃延になったということか。委細不明。しかし、これら数点の資料で京都二条城でどういう事態になっていたかが知ることができた。

 (14)上田五兵衛より京西御門番頭江書

 大坂弓奉行上田五兵衛沂椏s御門番頭への私信である。以前からの知り合いか。大坂御弓矢奉行とは、大坂御定番の支配下で、定員2名。屋敷は弓町の東西にあった。同心は10名ずつ付き、組屋敷は松ケ枝町にあった。竹上万太郎は、上田五兵衛の配下であった。

 「半鐘三ツばん打候候得共、大川向ヲ三ツ半鐘の場所。無之」とあるが、半鐘の打ち方で地域を判別できるようにしていたようである。

 また、「御庭之竹。、竹束を拵させ申候」とあるが、竹束たけたばを何に使ったのか例会で疑問になった。『広辞苑』では、「戦陣に用いた楯の一種。丸竹をたばねて作ったもので、矢や銃丸を防ぐのみ用いた。竹牌ちくはい」とある。別資料でも、「御城内には十九日・廿日ハ追手升形に土居を築き、大筒を五挺居へ、御門外ヘハ柵をふり。竹束も用意し、御城代土井大炊頭利位朝臣、着込ニ火事羽折を着し守衛す」(「塩賊騒乱記『大阪編年史』第18巻P349)とあり、竹束を拵えたのは間違いない。

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「ノ」の一文字 満藤 久

 「大塩の乱関係資料を読む会」で「塩逆述」巻の五、三十六丁を読んだのは、98・7・27であった。

 この「畑中」は「畑の中」と解すか、又地名の小字であるかが論じられ、此の場合は後者であると(会報16号)指摘があった。私も当初後者であると思い「畑中」の地名は有ると発言した。生駒越えした処に「中菜畑」と云う地名が有る。一瞬の勘違いであった。先生宛訂正を当時提出した。とんでもない位置違いであった。

 其の後畑中について、色々調べてみたが、字畑中は見当たらない。

 森鴎外『大塩平八郎』(岩波文庫、昭和15年)、幸田成友『大塩平八郎』(中央公論社、昭和47年)の中で、用いている地名は共に「志紀郡田井中村」までで小字とする畑中は用いられていない。

 尤も、鴎外は、幸田本を参考にしたと有るから、固有名詞は同位同列となるのは当然かも知れない。

 地図「八尾」(昭文社1977・4月。1万3千分之1)に依ると、田井中(村)は八尾空港地の東部一帯とこれの北部辺りと思われるが「畑中」の地名は見当らない。

 『大阪府』角川日本地名大辞典27、『大阪府の地名i』日本歴史地名大系28、「八尾市小字名表」八尾教育委員会(昭和60年)、『旧大和川跡略図』(天保末年)、『志紀郡誌』(昭和30年)、『志紀村誌』(昭和30年)に、田井、田井中、田井中村、田井村、田井郷などがあるが小字の畑中は見い出せない。

 唯、こヽに注目に値するのは、現JR関西本線志紀駅前辺に二俣(ふたまた)の地名があり、小字に畑中がある。(八尾市小字名表−八尾教委)田井中と大変近い。志紀町を挟んですぐ目の前である。

 森鴎外は、大塩平八郎の中で「畑中道」と言ってるところがある。

 「尤も間断なく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云ったのである。これを聞いた瀬田と、渡辺とは、「そんなら我々も是非共御先途を見届けます」と云って、河内から大和路へ奔ることを父子に勧めた。四人の影は平野郷方角へ出る畑中道の闇の裏に消えた。

 こヽでの「畑中道」は明らかに、畑の中の道である。

 『大塩平八郎一件書留』に「良左衛門相労歩行不捗取、迚も平八郎等之先途見届候儀無覚束旨申聞候間、捨身之儀申勧、良左衛門儀も得心之上、河州之内村名不存畑中ニ 而同人を及殺害、自滅之躰ニ 取繕置」、朱書に「此儀去酉二月廿五日河州田井中村地内畑中ニ 変死人有之候段、右村地頭堀田弾正陣屋江 訴出候旨、右家来届出候ニ付、」と有り、「名不存畑中」は名の解らない畑の中と解し、又、後段の変死人発見の地、河州田井中村地内畑中も「畑の中」と解すのが自然であろう。 畑ノ中と「ノ」の一文字を入れて置いてくれれば、こんな混迷はなかったであろうに、塩逆述を書いた当人も、160年も経た後の事は考えなかったのである。

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99年歴史セミナ−
    第3回「江戸と大坂」                     
    解説 渡邊忠司氏                       
         大阪市史料調査会主任調査員  
    とき  9月4日(土)2時〜4時    
    ところ  公立学校共済組合  ホテルアウィーナ大阪
                   天王寺区石ケ辻町19-12  

 

在野のコレクター 故島野三千穂氏の 蔵書調査に協力を 協力できる方は 和田まで連絡を

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