Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.10.9訂正
1999.12.14

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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第32号』


1999.12.13

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

目  次

第125回例会
「塩逆述 巻之七上」
(5)島原侯蔵屋敷役人からの書(承前)
 ・「大造」の読み方

○大塩家と日蓮宗  井形正寿
○鬼灯(ほおずき) 満藤 久

第 1 2 5 回 例 会

 第125回例会(『塩逆述』からは第57回)は一一月一八日に開催、巻七(上)の一三丁から一六丁まで読み進んだ。参加者は一八人。

(5)島原侯蔵屋敷役人からの書(承前)

 編者が「御遣ノ字ハ西国ノ方言也」と注書をしているが、「遣」は一般に使われていたのではないか、と疑問が出て、この注釈は理解しかねるとの結論になった。ただ、この「遣」を「やる」と読み、関東の「つかわし」に対し、「やる」が関西の用語ではないか、との意見がでた。一つの問題提起とする。

 蔵屋敷については、塚田孝氏が『近世の都市社会史』で、年貢米販売の施設という点に限定せず、大坂町奉行所の広域の行政−司法権限の面からも多様な機能を検討すべきという興味ある論を展開されている。参考まで。

 「大造」の読みについては、Nさんから原稿をいただいたので、紹介する。

○ 「大造」の読み方 ○

 「天保十二年丑年町触之写」というのがあって、天保改革の御触のひとつですが、次の一項があります。

 天保改革の御触が当時出版されていて、それを収録・解説した文献があす。『天保改革町触史料』(荒川秀俊編 雄山閣出版 1974 )ですが、六十六頁に同じものがでていて、当時のことで、ルビつきで、「造」に「さう」とあります。また、『角川古語大辞典』(角川書店 1994 )の「たいさう」の項に充てた漢字は、「大相・大騒・大造・大層」ですから、問題になった「大造」は、「たいそう」と読んで差支えないのではないかと思います。(N)

   (以下、次号へ)

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大 塩 家 と 日 蓮 宗井形 正寿

    大塩事件を調べていると、いろいろなところで予想もしないことに出くわすことが多い。  大塩平八郎の菩提寺は成正寺であることは、境内の大塩家九基の墓とともに世間周知の事実である。ところが、もう一三年も前になるが、意外なことを聞いた。それは、大塩平八郎の祖父・大塩政之丞が、日蓮宗富士門流大石寺末、源立寺の檀那であったと、同寺の門徒から告げられた。

 その門徒との出会いは、昭和六二年一月、池田市立歴史民俗資料館で開催されていた「大塩の乱と能勢騒動」展を見学し、帰り際に、館長に挨拶していたところ、突然、学芸員がいまここにいられる来館者の質問に答えられないので、ぜひ会って欲しいと引き合わされた。

 その後、門徒の手引きで源立寺の住職と数回お会いし、同寺が大塩政之丞由縁の寺であることがわかってきた。寺は開創以来四百年の歴史があるといわれ、明治一〇年まで摂津国西成郡薬師堂村(現東淀川区柴島一、二丁目界隈、一部は新淀川の河川敷となる)にあったが、同年一一月に、阪急池田駅から歩いて三分の池田市槻木一丁目に移転した。

 現立寺が大阪から池田に移転した理由として、大塩家ゆかりの寺であったため、幕府の宗教的弾圧を受け、廃寺同様の荒廃で明治を迎えた。これに追打ちをかけるように新政府の宗教政策によって、住職不在の寺の廃止が通達されて来たので、講中の人びとによって新しい住職を見つけるなど大変な努力がなされた結果、池田周辺に檀信徒が散在していた関係からか、明治一〇年に心気一転、現在地に移転したと寺史に書かれている。

 寺と大塩家のつながりを示すものとして、大塩政之丞が、総本山大石寺三六世日堅上人から授与された板曼荼羅が源立寺に遺されており、「大塩家先祖代々 大坂天満与力当門之信者」の文書と大塩政丞の先妻、本種院妙因日量の「過去帳」が寺に伝わっている。板曼荼羅には「安永七戊戌年十月十二日」「授与之、摂州大坂住人大塩政之丞成勝」と刻まれ、寺では日堅上人の真筆と伝えている。

 日蓮宗の各宗門では、日蓮が体験会得した法華経の世界を一副の紙幅または板に図顕したものを曼荼羅といい、これに向かって「南無妙法蓮華経」と唱え、法華経を読んで祈ることが修行の基本としている。だから、信仰の対象とする本尊は仏像ではなく、中央に独特のひげ題目の筆法で「南無妙法蓮華経」と大書された、文字『曼荼羅』を本尊として尊崇している。

 板曼荼羅の授与は通例では寺院向けに行われることが多いのに、本山の法主から大塩政之丞に異例の授与がなされたのは、政之丞が篤信の檀那であったと寺では説明している。大塩政之丞の本名(諱)の成余はよく知られているが、板曼荼羅には成勝となっている。成勝の名前が出てくる文書がほかにもある。それは政之丞の後妻西田清(加納または於世ともいう)の妹津佐が、寛政八年摂津国西成郡南大道村郷士沢田義文に嫁入に際し、大塩政之丞が出した沢田家宛ての婚礼祝儀の書状には端裏に成勝の名が記されている。相蘇一弘が「沢田家文書について」(『大塩研究』三号、六頁)のなかで大塩政之丞成勝の書状が紹介されている。 政之丞に授与された板曼荼羅は、現在は源立寺の末寺、府下豊能郡能勢町倉垣の広基寺に本尊として本堂に安置されている。源立寺が池田に移転した翌年の明治一一年一〇月に広基寺は、はじめ源立寺の説教所として開設され、数年のうちに広基寺と公称するようになったと伝えている。

 この板曼荼羅が、なぜ源立寺に伝わったかということについては、寺伝では「大塩乱後、寺に返却された」と簡単に記されている。しかし、大塩平八郎が決起する以前に返却されていたのではないかと思われる興味ある話がある。それは、さきにも書いた西成郡南大道村の沢田家(当主佐平太)に大塩平八郎が挙兵二日前に別離のため訪れた時、床の間に掲げてあった三聖人(老子・孔子・顔回)の図の上に、惜別の辞を認めたものが遺されていた。これについては、相蘇一弘氏論考「沢田家文書について」のなかで紹介されている。 沢田家と源立寺の距離は四キロほどだから、大塩平八郎が沢田家を訪れた日に、この板曼荼羅も平八郎が寄り道してでも源立寺に返却したのではなかろうか。私はそのような身辺整理をしたと思う。

 なぜなら、大塩決起の日、天保八年二月一九日には「救民」の旗とともに「南無妙法蓮華経」の旗が、船場の街にへんぽんと翻っていたということからしても、私は大塩平八郎の手から板曼荼羅は源立寺に返却されていたと、そう信じたい。 (未完)

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鬼 灯 ( ほ お ず き )満藤 久
 

 鬼灯(ほおずき)と読む。酸漿とも書く。

 ナス科の多年草。春花を開き、夏軽気球のような形をした網状の袋の中に、赤熱の丸い果実が出来る。果実の中味を出して、口に入れ、舌で圧して鳴らす。昔、女の子に習った。

 それにしても、あの可愛らしい赤い実のなる花を、鬼灯と書くのは少々酷な気がする。

 この鬼灯(ほおずき)で大利を得て、富農になった男が居た。

 名を橋本忠兵衛と云う。今を去る事、約百六十年前、大坂で大塩平八郎が乱を起こした(一八二七)。彼は平八郎の腹心の一人であった。般若寺村の庄屋で、村では「ほおずき忠兵衛」と云われていた。この異名「ちいさいけれども赤くてかくれなきとの名」。又「ほおずきを栽培して大利を得、富農になった」からとも云われる。−(大塩研究)−

 「ほおずき」の根はセキ止め、利尿の薬、実は玩具、薬屋、おもちゃ屋などに大量に引き取られた。この金は当然平八郎の軍資金にもなったであろう。

 そして彼は彼、京都で捕らわれ、大坂送りとなったのである。

 ほおずき忠兵衛は、げに鬼灯忠兵衛となり、彼にふさわしい姓となったのではなかろうか。

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編集後記

 「京都古書組合総合目録」第十二号(平成一一年)に大塩の詩文一幅(50×30cm)が二十二万円で売りに出ていた。「後素」と署名があり、落款も二つ押されており、本物らしく思われる。判断はつかない。次回にでも紹介します。(和)


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