Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.10.12訂正
2000.2.29

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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第34号』


2000.2.28

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

目  次

第126回例会
「塩逆述 巻之七上」
(7)越前守殿より稲葉丹後守へ御達書付、丹後守家来差出書
(8)岸和田藩臣より江戸同藩岡部氏江之書
(9)大坂御加番より御届弐通
(10)甲斐守より御用番江差出御届弐通
(11)本多下総守より御用番江差出御届弐通

○資料「大坂城外の守備区分」
○大塩中斎忌と記念行事
○谷田村について 満藤 久
○新刊案内『なにわ大阪 今と昔 絵解き案内』

第126回例会

 第126回例会(『塩逆述』からは第58回)は一月二四日に開催、巻七(上)の一六丁から二十丁まで読み進んだ。参加者は、初めての方二人を含めて二一人で、久しぶりに二十人を越えた。

(7)越前守殿より稲葉丹後守へ御達書付、丹後守家来差出書

 この史料は、老中水野越前守から淀藩主稲葉丹後守正守への達しと、それを受けての稲葉丹後守家来が水野越前守の御勝手へ差し出した返書からなる。

 この史料によると、淀藩主稲葉の家来が水野越前守の御用人に呼び出され、人数を差し出すように命令されたのが二月二七日の夜となっている。

 しかし、江戸に大塩の乱が伝えられたのは、二六日で、二七日と一日の食い違いが生じる。

次の・郡山藩の史料でも、二六日に呼び出しになっている。また、塩逆述巻之四の(2)「大坂騒動始より申来節留」でも二六日となっており事態の逼迫さからすると、その日に呼び出しがあったと考えられる。

 廿八日の返書では、淀藩では、すでに在所の淀から江戸屋敷へ、「火気余程相見え」、「城下往還厳敷吟味申候ニ付」との連絡が入っていた模様である。

(8)岸和田藩臣より江戸同藩岡部氏江之書

 この史料は、岸和田藩の出兵及び撤退の様子を、在所から江戸藩邸に送ったもので、以前にも取り上げられていた史料と内容的には変わりはない。ただ「同藩岡部屯より之書」の「屯」は、名前ではないか、あるいは「邸」ではないか、議論がわかれた。国立国会図書館版によると「氏」とあり、「岡部氏」なら意味が通じるので、写し間違いと思われる。

(9)大坂御加番より御届弐通

土井能登守から老中松平伯耆守への届けと井伊右京亮から大坂城代への届けである。

 土井能登守は、越前大野四万石の大名で、山里丸加番であった。京橋口定番の米倉丹後守が未着のため、京橋口定番の代わりを命じられたのであろう。二一日の届けで、三月二日に老中松平伯耆守に差し出されている。

 井伊右京亮は、越後与板二万石の大名で、中小屋加番であった。最初は重役の者を青屋口御番所に詰めさせていたが、小屋土居通を固めよとの指図があったので、重役を呼び戻した。

なお、参考に大坂城の警備の配置について三ページを参照のこと。

(10)甲斐守より御用番江差出御届弐通

 この史料によると、大和郡山藩の家来が水野越前守の御用人に呼び出され、書き付けを渡されたのが二月二六日、その早打(早駕籠)が三月二日夜に着き、一番手が暗峠に出兵したとなっている。これでは、大塩の乱が発生してすでに八日間も経っており、対応としては遅すぎるので、日付が間違っているのではないかと疑問が出された。

 これに対して、安井氏から水野の命令について、「忠邦は八ッ時(午後二時)ごろ退庁するのが通例であったが、この二十六日という日にかぎり、七ッ半時(午後五時)過ぎまで城に残って諸老中と熟議し、帰邸後、郡山・尼崎・岸和田・篠山・姫路の各藩邸から人を呼んで、至急鎮定に出兵するように令達した(『丁酉日簿』)。このときはまだ乱がわずか半日で鎮定したことを知らなかったので、こんな間の抜けた処置をとったのであろう。」(北島正元『水野忠邦』)という北島教授の著書の紹介があった。

 これによれば、老中水野忠邦が二六日に命令を下したのは間違いないようだ。では、暗峠への出陣は、この史料がいうように三月二日以降なのか、それともすでに乱勃発直後に出陣し、再び出陣したか、疑問は深まった。地元史料での調査が必要であろう。

(11)本多下総守より御用番江差出御届弐通

 本多下総守は膳所藩主で、大塩一党が高槻の神峯寺に立て籠もったとの噂で、京都町奉行から人数差し出すようにとの命令あった。また京都所司代からも達しがあった。その届けを藩主が御用番へ差し出した。


大坂城外の守備区分

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大塩中斎忌と記念行事


  3月25日(土)午後1時受付、成正寺  参加費 500円

  (1)午後1時30分

    大塩父子及関係殉難者怨新平等慰霊法要

  (2)午後2時

    記念講演 近世大坂の非人について

          塚田孝大阪市立大学助教授

  (3)午後4時

    大塩事件研究会総会
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谷田村について満藤 久

 『塩逆述』巻六下の二丁の勉強会は、平成一一年六月二八日であった。  

を学んだ。其の節、「谷田村」はどこか、ということが宿題となった。

 「大和路へ忍入候」とあるので、八尾−東高野街道−信貴山−高安山−十三峠−暗峠−生駒と捜しているうちに、現生駒市近鉄生駒駅前に谷田町があるのが目に付いた。早速、生駒市に問い合わせたところ、確証は無いが、谷田町は江戸期の谷田村である。この文章からして間違いないであろう。生駒市文化振興係谷田直樹氏の私見として解答を得た。

 残念ながら、ここで谷田村の調査は行き詰まった。生駒市には平八郎に関する史料は現在のところ発見されていないという。


新刊案内   
『なにわ大阪 今と昔 絵解き案内』 宗政五十緒・西野由紀著小学館2000.1

 「大塩平八郎終焉の地」の碑が紹介された嚆矢であろう。建碑の記念日にマスコミで報道されただけで、その後ほとんどアピールされていない中で、紹介された意味は大きいだろう。「(靱)公園の南、靱本町一丁目、信濃町交差点の西一〇〇m、一筋北側に天保八年(一八三七)に内乱を起こしス大塩平八郎が自殺した更紗屋の美吉屋がありました」と本文紹介があり、その左紙面に「大塩平八郎終焉の地碑(靱本町1丁目)平八郎とともに子の格之助自害」との説明入りで、碑の写真が掲載されている。

 ただ、惜しむらくは、碑の写真が御影石が、鏡のように正面の通過自動車を走る姿が影に写し出されていることであろうか。また、「大塩平八郎の乱」としてコラムとともに、天満与力役宅門・大塩平八郎の墓・洗心洞跡碑の写真三葉が載せられている。なお、「成正寺」が「成円寺」となっているのは、あきらかな誤植である。(和)


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