発行人 向江強/編集 和田義久
目 次
第127回例会
巻7(上)
(12)柏屋又八より之書
・「紙屋」について
(13)坂本鉉之助より之書
・「平野口」について
・施行の一朱はどれほどの価値があったか
○坂本鉉之助の手紙 井形正寿
○大塩「檄文」中の問題点 安井浩二
○新刊案内
第127回例会(『塩逆述』からは第58回は二月二八日に開催、巻7(上)の二一丁から二三丁まで読み進んだ。参加者は、初めての方3人を含めて20人であった。
訂正
前回の会報で「(8)岸和田藩臣より江戸同藩岡部氏江之書」を報告の中で、「同藩岡部屯江戸之書」の「屯」について、「氏」でないかとした。しかし、井形さんから提供された『天保武鑑』(正式の史料名は不明)によると、「岡部屯」という実在の人名が記述されている。「屯」で間違いはなかった。訂正します。
(12)柏屋又八より之書
差出人の柏屋又八については、「当地鴻池」 とあるところから、船場の町人と思われるが、「紙庄」あるいは「紙長」と関係ある人か詳細はわからない。紙の問屋がどこにあったか、興味あるところだが、後日Nさんから報告をいただいた。
大塩一党の旗に「南無妙法蓮華経」とあるが、これは間違いである。
○「紙屋」について −7巻上21丁関連−
『上方 第135号』(上方郷土研究会 1942.3 )に収録の「和紙文化と大阪」(寿岳 文章)に、享保の飢饉と天保の飢饉の際の寄 進者の中の「紙屋」を『仁風一覧』、『仁風便覧』で分析しています。「紙屋」が必ずし も「紙商売」とは限りませんが、前者で71、後者で88あるということです。紙が有利な 商業の対象であったこと、天保時代は、藩が 紙の専売に力を入れたということもあり、紙商売が隆盛の時期であったことがうかがえます。今橋・堂島あたりに紙屋が多かったこともこの分析にでてきます。「柏屋又八」が紙屋であったかどうか、興味のあるところですが、いくつかの文献をあたりましたが、その屋号のものは見つかりませんでした。『大阪紙業沿革史 巻上』(大阪紙商同業組合 1941)など。
また、 時代が違いますが、『難波丸』(元禄9年)に嶋屋町組「紙や長右衛門」がでています。「紙庄」に対応するようなものは見つかりませんでした。
『商人買物独案内』(文政2年)では「紙商売」は46軒、今橋・北浜あたりにかなりあります。坂本鉉之助の手記『咬菜秘記』に、梅田源右衛門を討ち取る直前に「紙屋」から窺ったことがでていますが、この紙屋が特定できればおもしろいと思います。
(ホームページ「大塩の乱資料館」に転載中ですが、次のようになっています。「貞」は坂本鉉之助のこと。)
(13) 坂本鉉之助より之書
坂本鉉之助の手紙である。まず、注目になったのは「大坂市中放火之上平野口にをいて摂河泉播之百姓一揆ヲ集メ、其躰ニよりてハ御城江も可打入哉之企ニ有之候より」とあるが、こういう企てはたぶんなかった。ただ、風聞としてあったかもしれない。この「平野口が、大坂市中の平野か平野郷か問題になった。
また、施行の1朱が、どの位の金額だったかという疑問がだされたが、明快な回答はでなかった。Nさんから後日別表のとおり報告があった。
○「平野口」について −7巻上22丁関連−
坂本鉉之助の手記『咬菜秘記』には、「平野口」云々の記述はでてこないようなので、この手紙のあと、この件は書き留めなかった、ということでしょうか、それとも写し間違いでしょうか。
「平野口」は平野口町(現在東雲町)のことか、平野道の起点にあたる要地と思われます。
位置としては、大坂城の南東、城の南には御城代屋敷など城方の武家屋敷があり、このあたりから玉造口へ、ということも考えられる道筋だったのかもしれません。(N)
○米価表
大坂は肥後米、米1石につき 銀・匁、小数以下切り捨て
『米と江戸時代』土肥鑑高 雄山閣出版 1980 より
| 大坂米相場 | 京都小売米価 | 江戸小売米価 | |
| 元禄4 1694 | 41〜53 | ||
| 延享1 1744 | 75〜59 | 83〜76 | |
| 宝暦9 1759 | 55 | 73〜72 | 70 |
| 文化1 1804 | 53〜63 | 60 | |
| 文政1 1818 | 52〜58 | 74〜68 | 67〜60 |
| 天保1 1830 | 69〜84 | 83〜95 | 82〜92 |
| 4 1833 | 75〜117 | 92〜122 | 77〜131 |
| 6 1835 | 68〜88 | 81〜90 | 104〜114 |
| 7 1836 | 82〜147 | 99〜134 | 115〜197 |
| 8 1837 | 89〜238 | 187〜157 | 231〜188 |
| 9 1838 | 87〜123 | 107〜124 | 138〜150 |
| 安政1 1854 | 78〜107 | 117 | 114 |
○三貨換算率(公定)
◇実際には相場で異なります。
『古文書判読字典』浅井潤子・藤本篤編 柏書房 1988 より
| 慶長14年 1609 | 金1両=銀50匁=銭4000文 |
| 元禄13年 1700 | 金1両=銀60匁=銭4000文 |
| 天保13年 1842 | 金1両=銀60匁=銭6500文 |
| 明治 2年 1869 | 金1両 =銭10000文 |
○1石=10斗=100升
○1両=4分=16朱
江戸時代物価表 (地方史研究協議会『近世地方史研究入門』)
| 白米 (1石ニ付) | 味噌 (1貫ニ付) | 塩 (1石ニ付) | 醤油 (1石ニ付) | 酒 (1石ニ付) | 灯油 (1升ニ付) | |
| 天保8年 | 187.8匁 | 3.5匁 | ─ | 87.7匁 | 190.7匁 | 4.0匁 |
(安井浩二氏提供)
| 坂 本 鉉 之 助 の 手 紙 | 井形正寿 |
|---|
いま、読む会では、「塩逆述」巻七の上を読んでいる。この二十一丁に「坂本鉉之助よりノ書」という宛所不承の手紙を読んでいた時、どなたかが、鉉之助は「咬菜秘記」という貴重な史料を遺していられるが、手紙は余り見かけませんネーと呟やかれていた。私は、瞬間反射的に、てんさんMONO−GOTO館に展示されていた諏訪藩坂本八弥宛の鉉之助の手紙を、思い出さずにはいられなかった。
この手紙は、いまは亡き島野三千穂氏が、どこでどうして手にいれられたのか、坂本八弥家文書約六十余点とともに収集されていた。同氏と親交のあった鉄砲研究家・澤田平氏の懇望により、手紙は同氏に割愛されていたが、特別のお計いで今回展示して頂いた。展示されていた手紙については、『大塩研究』十七号で島野三千穂・村上義光両故人が、解説を付して紹介されているので、説明はそれに譲りたい。
かつて、島野三千穂氏から、坂本鉉之助の手紙が意外や、香川県の博物館に一通あることを知らされていた。それは、鉉之助が大塩の乱の状況などを乱二か月後に、飯田藩鏑木堅蔵に出したものであった。島野氏が亡くなられる前年の一九九八年三月、産経新聞の小山記者から坂本鉉之助の記事を書きたいが、なにかよい資料はないかと問い合わせがあったので、早速、島野氏に教えを請うたところ、同志社大学経済学会『経済学論叢』第27号第3・4号(一九七九年三月)所載岡光夫先生の「坂本鉉之助の書簡」と題する資料紹介がコピーで送られて来たことによって、鏑木堅蔵宛の手紙の存在を知った。
堅蔵は、鉉之助の実父坂本天山に砲術を学び、飯田藩に砲術指南役として仕えた。堅蔵は、大塩乱後の四月一日に天山の息子である鉉之助に出した見舞状が四月二十六日に到着し、四月二十八日に返事として出したのが、この手紙である。
手紙の内容は、乱後二か月余だから生々しく記述されてあり、『咬菜秘記』は、ここから生まれたと見られる。岡先生も、鉉之助は「おそらくこの書簡の控のようなものを残し、秘記の作成にとりかかったと思われ、秘記の正確さを裏付けるものとして、この書簡が重要である」と結ばれている。
ところが、この手紙が堅蔵の宛所、信州・飯田に実在しなくて、なぜか、讃岐・坂山市の亀田共済会郷土博物館に所蔵されている。岡先生はこの手紙を同館で発見されたが、この時のことを先生は「何と不思議なことであろう」といわれている。
島野三千穂氏が知らせてくれた手紙の実物を、機会があれば、とくと拝見したいものである。
| 大塩「檄文」中の問題点 | 安井浩二 |
|---|
大塩の檄文の文末に「民を吊、君を誅し、天□を執行候」の一節がある。この□について、検討を行った。
○問題点1 □の解読に複数説あり
天□は、「天討」か「天罰」か「天誅」か。
(1)「天討」
幸田博士以降殆ど踏襲
(2)「天罰」(天罸を含む)
天保8年当時の筆者の多数はこれ
(3)「天討」 「討」にルビ「ちゅう」付は当該本のみ
○結論
(1)問題点2に示す通り、□は人編である。よって「天□」は「天討」でなく、「天付」である。
(2)辞典では、「天付」の熟語は見当たらないが、文脈より、「天からの付託」の略語と考えられる。
大塩の著述中に、この語句が見付かることを期待ししたい。
(3)前記の一節を、「天付」を使用して、書下し文を作成した。( )内を補った。
新刊案内
^森村誠一が『週刊読売』に「人間の剣 江戸編」のシリーズで、「両刃の叛乱」と題して大塩平八郎を三回にわたって取り上げた。(2・27号、3・5号・3・12号)
_吉田和男『桜の下の陽明学』清流出版
`吉田公平『日本における陽明学』ぺりかん社
今号は、安井さんの檄文の解読についての興味深い文を収録した。成正寺所蔵の「檄文」の解読から、「天罰」でも「天討」でもなく「天付」ではないかとの指摘である。「天付」とは、「天よりさずかる」との意味のある言葉で、辞書にもある。