Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.4.26

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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第36号』


2000.4.24

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

       目   次

第128回例会

塩逆述 巻7(上)

(13)坂本鉉之助より之書(承前)

○「大塩の乱と古河藩」
○催し「大塩平八郎と大塩の乱」

第128回例会 報告

 第128回例会『塩逆述』からは第59回は三月二七日に開催、巻7(上)の二三丁から二七丁まで読み進んだ。参加者は、初めての方1人を含めて19人であった。

(13)坂本鉉之助より之書(承前)

 前回から引き続き、坂本鉉之助の書簡写を読み進んだ。『咬菜秘記』の記述と比較しながら読むとおもしろい。

 「天満天神へ火矢を打込焼立」とあるところは、『大阪天満宮史の研究 第二集』(1993)収録の相蘇論文「大塩の乱と大阪天満宮」が天満宮側などの史料を援用しながら、天満宮も建国寺(東照宮)も類焼であったことを論理的に考察されているので、鉉之助の伝聞したことは事実とは違うようだ。『咬菜秘記』もそうだが、鉉之助の実見したことと、伝聞したことを分けて考える必要があるだろう。その上、写しの段階での間違いもあることを常に頭に置いておくことも肝要だ。

 十九日当日に施行で人が集まっていたというのも、事実は、池の埋立てのために般若寺村から人が集められていて、これは中国の故事に基づくものだと、向江先生が教示された。

 宇都木の一件では、『咬菜秘記』にある「餞別に国光とかの拵刀を平八郎へ遣し」という文章がおかしいと思っていたが、この手紙で、「平八郎より」となっているので、こちらの方が納得がいく。この手紙では刀は「友成」になっている。

 宇都木を切った大井正一郎については、家人がもてあましていたことなど、かなり書き綴っていて、事件発覚後、正一郎関係者の、大井の「家」を残すための方策の話を向江先生からお聞きして、宇都木が、家名を守るために、死を覚悟して師の謀叛に荷担しなかったことと合わせ考えると、選択を迫られた極限状況での大塩の乱関係者のそれぞれの選択を、善し悪しと簡単に言うことはできないであろう。宇都木については、鉉之助は、『咬菜秘記』で「惜哉」と書いている。

 また、書簡の宛て先は、大井の以前の騒動を前にも書いたことがあるか、内情を書いても差支えない、かなり親しい相手と推察する。

 また、大塩の業績に触れて、一年に「御褒美銀七十枚も」頂戴したことがあると述べているが、このような仕組みが町奉行所にあったのか、あまり聞いたことがなかったので興味深く読んだ。

 『咬菜秘記』では、鉉之助の娘は、合壁の忍藩の和田孫兵衛に嫁していることもでている。『塩逆述』に出ている「寿八」は和田孫兵衛のことか。また、娘らが鉉之助の屋敷に避難してきて、3、4日のうちに2石も米を消費したとあるが、武士で餓死したという話は聞かないな、と出席者の興味をそそった。なお、娘のところは、土蔵が焼け残ったとあるが、土蔵に家財を入れる余裕があったことをうかがわせる。『咬菜秘記』では、天満火災のことをきき、柴田勘兵衛に娘宅の様子を探りに行ってもらっている。そのときは大丈夫だろうということだった。

 土蔵の目張りについて以前疑問がでていたが、先日「住まい情報センター」の学芸員の方におたずねしたところ、土蔵近くに備えの土盛りをしておくと答えていただいた。

『咬菜秘記』より

 文字では「匕」は「さじ」で辞典にもでていると指摘があった。(N)(和田氏欠席のため、代わりにまとめました。)
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 3月26日早朝、大阪を発ち、茨城県古河(こが)市を訪れました。大塩の乱の時の大坂城代・土井氏の領地だったところです。また、奇しくもこの日は、大塩父子の潜伏先が発覚して、美吉屋宅へ幕府方が捕縛に向かった日でした。

 今回の旅で、古河が茨城の西端で埼玉と接していること、東の中心水戸から随分離れていることを地図で確認しました。将軍の日光東照宮参拝の宿泊場所で、奥羽街道・日光街道の宿場町でもありましたから、交通の要衝地だったのです。

 10時半ごろJR古河駅に着いて、真っ先に観光案内所に行きました。そこで、ボランティアの方々の暖かい歓迎の言葉を受け、おまけに無料で自転車を貸していただくことができました。この自転車のおかげで、短時間であちこちに行くことができました。古い町並みの残る城下町ですが、それだけに道が曲がりくねっていて、初めての者の一人歩きでは、あまり多く回ることはできなかったでしょう。

 最初に行ったのは、桃林祭で賑わう古河総合公園、まだ満開になっていませんでしたが、大阪城が梅や桜で賑わうように、古河の市民の憩いの場所で、近隣からも多くの方が訪れるところのようです。季節によって異なる花が咲いている公園とのことです。この中で「古河公方館跡」などの文化財が公開されています。 古河城は、渡良瀬川に沿って築かれた平城で、「古河城趾」の碑があります。川に沿ったサイクリングコースの途中にありました。土手で作業をしている方にお尋ねしたのですが、数日前には倒れていた、ということでしたが、どなたかがまた元どおりになさったのでしょう、私が見たときはまっすぐ建っていました。碑の存在を近所の方が心に留めておられるのだと思いました。

 森鴎外の『大塩平八郎』に記される古河藩士の名は次の通りです。

 家老・鷹見十郎左衛門(泉石)。大目附・時田肇、岡野小右衛門、菊地鉄平、芹沢啓次郎、松高縫蔵、安立讃太郎、遠山勇之助、斎藤正五郎、菊地弥六(以上捕方)。鳥巣彦(亥)四郎(伝令役)。

 今回の古河訪問での一番の目的は、古河歴史博物館の見学でした。ここは、幸いにも古河の郷土史家・伊藤巌氏に案内していただくことができました。

 古河の近世の歴史では、藩主は11を数えるということですが、なんといっても土井家が長きにわたって支配したので、重要な位置を占めているようです。そして、天保改革期の老中であった利位(としつら)は、「上知令」反対などの政治面で注目されますが、城代として大塩の乱にも関りの深い人です。しかし『雪華図説』を著わした利位は、「雪の殿様」として、文化面でも地元で高く評価されていることが、展示内容でもよくわかりました。また、古河の小中学校の校章のほとんどがこの『雪華図説』から図案化したものということです(『雪の華』古河歴史博物館 1995 )。

 ちょうど特別展示のテーマが「花」でしたが、「雪の華」も多く展示されていて、その見事なデザインに見とれてしまいました。博物館グッズにも多く採用されています。当時「雪華模様」がどのように流行したかも展示されていました。前に紹介した(『会報 第14号』1998.2 参照)歴史文学賞受賞の間万里子氏の「天保の雪」(『歴史読本2月号』新人物往来社 1998.3 掲載)は、大塩の乱の時期の利位と家老・鷹見泉石を描いたものでした。そういえば、『雪華の乱 −小説・大塩平八郎−』(岡田誠三著 中央公論社 1977)も「城代 土井利位」という章を設けています。タイトルに「雪華」を採用してるのが興味深いところです。

 常設展示も特別展示も予想以上に充実した内容で、機会があれば「古河藩と大塩平八郎の乱」というテーマで特別展をしていただきたいな、と密かに思いました。

 また、利位の家老であった鷹見泉石も利位に劣らず評価の高い人物で、展示室のひとつに「鷹見泉石と洋学」が設けられています。ここに樫木の「大塩平八郎召捕棒」が展示されていました。鴎外の小説にも出ている「半棒」です。

 『歴史散歩 −鷹見泉石と古河藩−』(石川治著 古河市 1996 )に、「大塩平八郎を問いただしたかった鷹見泉石」という一文があります。その中で、泉石は、「物事を科学的に眺め、合理的に判断できる人だったに違いありません。そのためには大塩の言い分を聞く必要があるのです。その上雅量のある人ですから、敵の声であっても公正に聞くことのできる人でした。それで大塩を生け捕るように命令し、半棒を持たせて出勤するのです。」と書かれています。

 『大塩研究 20・21合併号』(1986.3刊)収録の「『鷹見泉石日記』にみる大塩事件像−大坂城代家老のえがいた天保8年2月〜3月の状況−」(村上義光・中瀬寿一著)にも、「是非是非生捕にいたし候心得にて」と書いた史料が紹介されています。古河では見ることのできなかった『古河郷友会雑誌 第11号』(1898.5)所収の「大塩平八郎召捕大阪罷越候一件之記」が、全文収録されていました。迂闊なことですが、これを読み直していませんでした。これは、『古河市史 資料 近世編(藩政)』(1979刊)に収録されている「天保八年大塩放火騒動諸記録写」一巻、三巻の間の、欠本になっている二巻に該当すると思われるものです。

 ついでですが、捕縛に関わった家臣のうち、「骨折」に対する褒賞に触れた解説があり、次のようななものを10月にもらったことがでています(年齢は乱の時点)。  

 大塩が生きて捕縛されるつもりはなかったでしょうが、言い分を聞いてみたいのは、大塩研究に関わる者すべてが思うことでしょう。大塩平八郎本人のことについて、残る史料が少ないのは残念なことです。

 『鷹見泉石日記』については、博物館で研究が進んでいるようです。前記「『鷹見泉石日記』にみる大塩事件像」は、大倉精神文化研究所の写本に基くものと思われますが、原本に基く刊行が待たれるところです。泉石は地図や史料など、貴重なものを残しましたが、大塩の乱との関りだけでなく、たいへん興味を惹かれる人物です。

 ちなみに、泉石日記(底本・大倉写本)を使ったものに、「大塩平八郎の最期」(執筆・針谷武志 『日本史史話 2 近世』大口勇次郎ほか編 山川出版社 1993 所収)があります。

 『古河市史 通史編』(1988刊)も今回初めて見ましたが、「古河藩と大塩平八郎の乱」の小項目「大塩平八郎父子の最後」で、次のように結んでいます。「半棒」が謂れとともにこのように残されてきたことは、古河藩にとって大きな意味のあるものだったと思われます。  

 幕府の打撃は大きかったにしても、古河藩は、乱の鎮圧、首謀者の発見・自殺に大きな功績が認められたのです。

 一方で、城代家臣が直接捕縛に向かったことは、『浮世の有様 巻六』に書かれているように、町奉行の「功を奪はんと思はれし事ならん」という風聞も流れていたようです。跡部の恥辱を雪ぐ機会を奪ったという見方です。『泉石日記』では、西町奉行所与力・内山彦次郎と相談して捕縛の態勢を決めたようですが、城代が独断で行動して奉行所は埒外に置かれたと、いう噂も流れたということがうかがえるものです。

 また、以前話題になった、『塩逆述 巻五』「(15)在番御番衆ノ書」にでてきた(「会報15」参照)、乱当日の「大的」ですが、通史編の「大塩平八郎の挙兵」の項で、「騒動の当日は快晴で、弓の大的の定日であったから、大坂城本丸では城代土井利位もでてそれが始まっていた。」ということですから、「書」は事実を伝えるものだったようです。 通史編には、城内の兵数は、通常千五、六百名ということですから、そこへ応援の諸藩の四千ほどが入ったので、たいへんな人数が集まり、握り飯の竹皮の調達だけでも出費がかさんだことが書かれています。

 泉石に3月27日夜与えられた感状の写真も掲載されています。

 また、この巻に、古河藩の文武振興策について記述がありますが、剣術・柔術の千賀牧太、槍術の神尾左司馬の二人を武術の達人として紹介し、中でも竹内流の神尾左司馬は、大塩と立ち合って勝ったということです。若いころ他流試合をして叱責を受けたという有名な逸話からして、そういうことが本当にあったのか、興味のあるところです。場所としては、平野郷であったのかもしれません。

 余談ですが、大塩父子捕縛の陣頭指揮をとった泉石が、落着後江戸へ赴き、主君の代参した帰りに渡辺崋山と会って、そのときに描かれたといわれる肖像画が、有名な「鷹見泉石像」(国立博物館蔵、国宝)です。複製が展示され、『古河歴史博物館 展示図録』(1990刊)の最初の口絵にも掲載されていました。

 博物館の向いには、「鷹見泉石記念館」が旧居を利用して公開されています。付近一帯は、落ち着いた環境で、まち中と思えないような雰囲気のところです。博物館は、開館が平成2年で、市の規模を考えると力がはいっていると思われます。行く前にホームページを見ましたが、僭越ですが、よくできてると思いました。あとでほかの方から聞くと、結構評判のホームページのようです。旅行の数日前に、泉佐野市(人口は古河市の約1.5倍)の「歴史館いずみさの」(平成8年開館)に行って、熱意のある館長さんに案内していただきながら、予算の関係であまりスペースを取れなかったし、テーマをしぼらざるをえなかった、というようなお話をきいたところだったので、つい比較してしまいました。 行き先を古河に思い立ったのは、『大阪春秋 第98号 特集 城下町と諸藩』(大阪春秋社 2000.3 )掲載の村田隆志氏執筆の「平野郷と古河藩」を読んだこともありました。古河との交流のお話は前に少しお聞きしていましたが、大塩に関わる古河にはは前から行ってみたいと思っていました。  伊藤氏には、土井家の墓所も案内していただきましたが(時田家も通りすがりに教えていただきました)、帰りに、ご著作『古河史逍遥』(1997刊)をいただきました。地元紙に連載したものを中心にまとめられたもので、平易な語り口で、私のような歴史の素人にもわかりやすいものです。古河地域のほかに、大阪など各地に足を伸ばして書かれているのが、内容を豊富にしています。

 以前和田さんが古河藩の領地について触れて(『会報 第22号』1999.2 「茨田軍次と門真三番村」参照)、「古河藩の摂津の領地は、平野郷町・西喜連村・堀村・南嶋村・門真三番村・北大道村・宇野辺村・宇治野村・東下村・北野村・長野村の11か村」というところに疑問を感じて、何か書こうと思ってそのままになっていましたが、この著書の中で伊藤氏が「古河藩領上方添地村名と現在地名」というのにまとめておられました。摂津の古河藩領は26(現大阪府域18、兵庫県域8)、上方の飛び地は、美作なども含めて全部で84あったということです。

 なお、門真三番村は「河内」ですが、乱の当時は、城代の「役地」として古河藩が支配していたことが、『野口家文書 大塩事件関係史料』(門真市 1984 )にでています。城代の役地は大坂城に近い摂津東成郡に集まっているようです(『旧高旧領取調帳 近畿編』木村礎校訂 近藤出版社 1975 参照)。

 急に思い立っての古河訪問でしたが、また、そのため下調べもしないままでしたが、前日「平野の町づくりを考える会」の村田氏にご紹介いただいて、古河郷土史研究会の伊藤巌氏(市の文化財保護審議委員などもなさっています)に古河の町を案内していただくことができました。おふたりに深く感謝いたします。

 特に伊藤氏には、家業のお忙しい中お時間を割いていただいて、まことに突然にあつかましいことでしたが、快くお迎えいただきましたことを、重ねてありがたいことと思っております。また、初めて訪れた古河の町の暖かい気風に触れたことは、再度訪れたいという気持ちにさせられました。

 大塩の乱と古河の関係は、『民衆史料が語る大塩事件』(中瀬寿一,村上義光編著 晃洋書房 1990 )にも出ていますが、まだまだ研究の余地があるように思います。古河の方々も含めて、今後の調査を期待したいところです。  (N)

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催し案内「大塩平八郎と大塩の乱」

講 師 相蘇一弘氏(大阪市立博物館館長)
日 時 6月20日(火)10時から12時
場 所 三和住宅3F会議室
     近鉄西大寺駅下車 北口すぐ前
資料代 500円(当日払い)
申込み 不要、ただし先着順のため、かなり早めに行く方がいい。
主 催 奈良歴史地理の会(代表 奈良大学名誉教授野崎清孝氏)


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