Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.6.1

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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第37号』


2000.5.29

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

       目   次

第129回例会

(14)玉造与力より出候書

○「大塩平八郎関係書類が発見された箱根山麓豆州塚原新田の現地レポート」
○「大塩平八郎の書店に寄せた書面」
○「宇田川文海と大塩の乱」
○新刊案内『大坂加番記録 2』
     『図説  日本の百姓一揆』
     『河内長野市史2 本文編 近世』

第129回例会 報告

 第129回例会『塩逆述』からは第60回は四月二四日に開催、巻7(上)の二七丁から三三丁まで読み進んだ。参加者は、一九人であった。

(14)玉造与力より出候書

 「玉造与力」と資料の内容から見て、坂本鉉之助の手になるものと思われる。坂本ら玉造与力が大塩の乱の鎮圧に果たした役割については夙に知られており、鉉之助自身『咬菜秘記』や「玉造組与力同心働前御吟味に付明細書取」に書き残している。

玉造の支配は坂本鉉之助と岡翁助。二月の月番は、鉉之助。頭遠藤但馬守からの沙汰を、公用人畑佐秋之助から申し渡された。跡部山城守からの依頼で、同心支配一人、与力二人、同心三十人、いづれも鉄鉋を携えて東町奉行所へ行くべしと。鉉之助と平同心の蒲生熊次郎、本多為助は十匁の持筒、同心らは三匁五分の御渡筒を持参したのであった。

 大砲を取りに行く経緯について、幸田成友は坂本の資料を使って次のように書く。

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 向江さんの論文のパソコン入力の校正のお手伝いをする中で知った「箱根山麓豆州塚原新田で発見された大塩平八郎関係書状類」(『日本福祉大学研究紀要』第五九号一九八四)と題する青木美智男同大学教授の史料紹介を大阪府立中央図書館で複写する一方、たまたま三島市で持たれた「はめ字文の会」の例会に出掛けたついでに当該塚原新田の一里塚を捜し出し、現場の写真も撮ってきましたので、報告します。

 同史料は、「天保八年三月、即ち大塩乱の翌月付で、豆州韮山の代官江川太郎左衛門から差出した届書に同国塚原新田地内一里塚の傍の林の中に」云々と、幸田成友がその著に記しているように、その存在が知られていました。

 幸いなことには三島市の地図には塚原新田という地名が今尚存続しておりましたが、何分、百六十余年も以前のこととて市中の人々に尋ねるも要領を得ず。

 旧東海道沿いの錦田一里塚を頼りに、近くの「田福寺」の和尚を尋ね、その一里塚を確認することができました。その場所は三嶋宿から箱根宿へ向かう松並木沿いの旧街道の北側と南側に一対現存保全されていました。

 三島中央図書館には皆さん良くご承知の仲田正之氏の地元『韮山代官江川氏の研究』と題する図書の「大塩平八郎建議書類の盗難/盗難の顛末」に詳しいが、「無宿勢(清)蔵ガ奪シ飛脚状箱ノ事」に注目すれば、

 (前略)三月四日朝五ツ前「定五郎上り荷物之内抜荷物」が小田原宿よりの継送りで、箱根宿に到着。箱根宿定飛脚宿与三兵衛は、箱根宿三島町の藤蔵に、三島宿定飛脚宿仁三郎方まで、同荷物の送付を依頼した。同日昼九ツ時頃、持病の疝癩(せんしゃく)を起こした藤蔵が、三島に下る三谷新田にて苦しんでいるところへ、渡り人足清蔵が通りかかった。顔身知りの間柄であったことから、藤蔵は銭八十文を渡し、三島までの届け方を依頼した。

 荷物を預った清蔵は、三島に向かう途中、「風と欲心差起」し、金目のものを狙って犯行におよび、老中当て等の書状類をすべて開封した。ところが、金目のものが一切出てこなかったため、事の重大さのわからない文盲の清蔵は懸物一幅を盗み、そのまま東海道を西に逃走した。(中略)

 三月四日夜四ツ時、三島宿仁三郎より荷物届かない旨の報せが、箱根宿与三兵衛方に到った。与三兵衛よりこのことを糺された藤蔵は、清蔵が持ち逃げしたことを悟った。そこで、両宿よりこの旨を韮山役所へ届け出る一方、藤蔵は清蔵の、与三兵衛は荷物のゆくえを求めて出発した。

 三月五日の朝、与三兵衛は塚原新田村境(北側一里塚付近)において、散乱した建議書類を発見。云々。  当該一里塚は史跡に指定されており、江戸日本橋より二八里目の一里塚です。三島の文化財ガイドマップ箱根松並木や小生が撮した写真の通りで、「したにィー、したにィー」の声は、南側の新国道一号を直走るトラックの轟音に掻き消されて聞こえなかった誠に残念至極でした。

 読む会では巻七上の三五〜三七丁に「江川太郎左衛門御届 韮山御代官」の項で当該一里塚が出てきますので、参考になれば幸甚です。

写真2葉(省略)

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新刊案内

『大坂加番記録 2 −明和七年八月〜明和八年八月、青屋口加番京極高久−』(徳川時代大坂城関係史料集 第二号)大阪城天守閣 1999.3
大塩の乱とは時代が異なるが、大阪城守衛の任務についた加番京極家中の公私にわたる記録で、たいへん興味深い。1年の勤務の間に、200名以上の人数が青屋口加番小屋につめていたこと、城の出入りの記録など、乱のときの城方の動静を考える上で参考になる。収録は「峰山藩御用日誌」、「公私用覚書」。
なお、「史料集 第一号」は、『大坂加番記録 1 −安永九年八月〜天明元年八月、雁木坂加番京極高久−』97年3月刊行で、これもおもしろい。

『図説 日本の百姓一揆』歴史教育者協議会 民衆社 1999.10 p221〜227
「大塩の乱」は百姓一揆と同列のものかどうかということはあるが、百姓一揆を語る中で触れられることも多い。ここでは、56番目に採用されている。教科書での記述が変りばえのしない中で、このような形で教育の現場で取り上げられることは喜ばしいように思う。随所に図・写真(檄文、大塩焼け図、大塩平八郎終焉の碑、成正寺、乱情報伝播図など)があり、飢饉から蜂起に至るまでを、最新の研究成果に基いて記述し、最後は水戸斉昭の『戊戌封事』の意見書で結び、乱の影響に及んでいる。執筆は岩田健氏。

『河内長野市史2 本文編 近世』河内長野市史編修委員会編 河内長野市 1998
 大塩の乱で、大塩一党の手配書が摂河泉播に配られているがここでも同様にそれが記録されている。河内の南に位置し、残党が身を隠すのに絶好の場所で、探索も厳しく、出張ってきた大坂町奉行所の役人が三日市宿に数日泊まるが、そのときの経費が記録に残っていて、費用負担は地元の村がしたということで、数字がでている。なお、「終焉の碑」が掲載されるのは、自治体史を含めて、『大塩研究』以外では初めてではないか(前号の紹介は間違い)。執筆は福島雅蔵氏。


●「咬菜秘記」が収録されているのは次のものです。
『旧幕府 2〜3巻』冨山房雑誌部 1898.9 〜99.8
『大塩平八郎』岡本良一著 創元社 1975
『日本都市生活史料集成 1 三都篇1』原田伴彦編 学習研究社 1977


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