発行人 向江強/編集 和田義久
目 次 第132回例会報告 「塩逆述 巻7 中」 (1)伊豆守 新庄・内藤への書 (2)大坂御城御備方書 (3)御弓張並御弓ためし (4)間五郎兵衛 佐藤捨蔵への書 ○「幕末の大坂城およびその付近図」 ○「坂本鉉之助のふるさとを訪ねる」
第132回例会(『塩逆述』からは第62回)は七月三十一日に開催、巻七(中)の初めから三丁まで読み進んだ。参加者は、初めての方一人を含め一七人であった。
(1)伊豆守 新庄・内藤への書
差出人の伊豆守とは京都所司代松平信順、受取人の新庄と内藤とは、二条在番の新庄主殿頭と内藤豊後守である。
大塩一党が、京都に逃げ去ったかもしれないので、怪しい者が越してきたら召し捕ってほしいとの、大坂城代土井大炊頭から京都所司代へ申してきた。その旨を、京都所司代から、二条在番の二人に達したものである。
(2)大坂御城御備方書
二月一九日、二十日の大坂城の備方を箇条書きにしたもの。しかし、配置人数については、残念ながら記述されていない。
大手御門 大番頭 菅沼織部正 大手先北方 岡部内膳正 大手南方 松平遠江守 天神橋北詰 土井大炊頭 同 南詰 堀伊賀守 京橋口 加番 土井能登守 同御門外 岡部内膳正 永井飛騨守 玉造口 遠藤但馬守 加勢 菅沼織部正 桜御門 廿日昼まで 菅沼織部正 廿日昼過ぎから 北条遠江守
(3)御弓張並御弓ためし
これは、先にでてきた二条在番の新庄組・内藤組の弓奉行の同心らが、三月一日から四日まで弓ためしをしたが、そのときの人名の書き上げである。興味深かったのは、古弦は皆切れて使い物にならず、各自が新弦を持参して弓ためしをしたことだろうか。
(4)間五郎兵衛より佐藤捨蔵への書
これは、間五郎兵衛が佐藤一斎へ、大塩父子が自死した時に送った書簡である。編者による見出しが「佐藤権蔵」となっているが、「捨蔵」の間違いである。手紙書簡の宛名は、間違いなく「佐 捨蔵」でなっていることからも判明できる。
間五郎兵衛とは間重新(確斎)のことで、有名な天文学者間重富(長涯)の息子で、大塩平八郎とは旧知の間柄であった。
二人の出会いについては、詳細はわからないが、重新が文政十年(1827)七月に江戸へ出府した折、平八郎の欲しがっていた典籍を神田の書店で購い贈っている。また大塩は、重新が天保四年四月に出府する際には、佐藤一斎へ『洗心洞箚記』への贈呈を依頼している。また、天保六年二月の『増補孝経彙註』の出版と同年四月『洗心洞箚記』の再版には、重新が板元を引き受けている。親密な間柄であったと思われる。
さて、間重新は、大塩の乱が起こった日のことを、『進達御用書大下書 木星・火星』という観測日記に触れて、「思モヨラザル不容易ノ一大変事」と書いている。また、二月二十五日に佐藤一斎に大塩の乱について書き送り(『塩逆述』巻十二)が、大塩の自殺が明らかになると、早速四月三日に佐藤一斎に手紙を送っている。これが、この史料である。一斎とは、父重富からの交友だったが、重新が大塩の乱にどれほどの衝撃を受けたかは、想像外のことであるが、残された史料から私たちは判断するしかない。
間確斎 中斎・一斎往復の書簡中にある間生は、十一屋五郎兵衛という質屋の主人で、名を重新、字を徳盛、号を確斎といい、天文家として有名な長涯の長子である。確斎が中斎の知己になったはいつからであるか解らぬが、彼が中斎と交りを絶ったのは挙兵半年ばかりで、それには一条の話がある。七年の秋の頃確斎が洗心洞の塾の方へ行って見ると、下駄の脱ぎ方がはなはだ乱暴で、片足ずつ散乱している始末、毎々中斎から頼まれて居るには、何事によらずこの方の行き届かぬ点があったら、遠慮なく知らせてくれとあるのを思い出し、中斎に告げたところ、御心付誠に忝なしと懇々礼を述べた。しかるに一月程経て見ると、下駄の脱ぎ方は以前と同様乱暴であるので、確斎は中斎の心と言と相違あるを知り、それからは再び洗心洞を訪わなかったという。
〔塾生の草履のぬぎ方〕
平八郎が隠謀は余程前より萌ある事にて、心も惑乱せしに哉。 浪華画工文坡といふもの(是に文坡と書しは貞が聴誤りにて文坡にあらず。十一屋五郎兵衛と云ふ天文方の御用を承る町人なり。間五郎兵衞といふものなりとぞ。頭書に書入れあり)、兼て大塩へ出入せしが、平八郎常に文坡にいふには、何事に依らず此方の行届かぬことを見聞になれたらば、無遠慮、必ず告知らせ呉よと毎度懇々頼む故、前年の秋頃にや、書生塾へ文坡か行たりしに、書生の草履のぬき方甚だ乱足にて、片足つゝ散乱してある故、箇様の事は先生の平常(殊に)やかましく云るゝ事なり。全く先生の目の行届かぬことなるべしと思ひて、其事を平八郎へ告たれば、殊の外喜びて、 能云て呉たり一向不存事なり、忝なし と(礼を云たり。其後三十日計過ぎて平八郎方へ行て書生塾へ行き見れば、以前の如く草履悉く乱足なり。文坡其時思ふに、是は合点の行かぬことなり。先生の懇々頼まるゝ故乱足の事を告げたれは、殊の外忝なしと)云て今に我言を用られす、乱足は以前に替る事なし。是にては心と言と違ふたる人なり。最早親しくはせられぬと思ひ、(夫より再び)大塩へ行ざりしは半年計以前の事なり、文坡が話しの由を尾(尼)崎又右衛門の話なり。元来平八郎は三礼の事を能く云て、今日の礼義は殊に厳格にて、米倉倬次郎が塾にありし節抔は、必 夜中何時となく一度つヽ塾中を見廻り、其時は書生直に起上りて袴を付、先生へ辞義を致す事なり。若 書生の寝様不行義なれば、殊に怒て厳敷叱る由なり。去らば乱足などは殊更にやかましく云へき筈なるを、其儘に聞捨に為置きたるは、内心に深く謀りしことありて心迷乱せし事に哉。
四月二日 快晴 朝五十二分
御前へ出、御供其外残調伺済○目付中用心中吟味等候、心得申渡○彦次郎其外御目六被下不可然、庄左申相止○昨日間五兵衛菓子折持参参留守ニ而次郎逢○右菓子花月庵へ持参遣売茶翁書、文晃画懸物出来候間、書附頼持参之処留守ニ付娘へ頼置、夫 木綿丁大黒橋、波吉橋、住吉橋、賑江橋、阿弥陀池へ参、問屋橋 間五郎兵衛へ参、測量器一覧支度出、暮ニ帰
(中瀬寿一・村上義光・中瀬紀美子「大塩事件と打ちこわし続出下における“大塩ブーム“ならびに”大塩狩り“の状況」『大阪産業大学論集 社会科学編64』)
二月十九日丁卯晴天
今朝天満川崎与力屋鋪ヨリ思ヒヨラザル不容易ノ一大変ヲ発ス、悪賊ノ者乱妨狼藉、天満郷・船場北辺・上町所々飛道具・火器ヲ用テ放火シ、翌廿日ニ至り、両日両夜ノ大火トナル、寶賤上下・市中在辺トモ、其遠近ニ不拘、人四方ニ奔走、家々戸々其擾乱騒動言語ニ及ブベカラス、恐レ入タル一大変事、古今未曾有ノ火変騒擾ナリ、既ニ悪徒退散、或ハ縛ラレ、或殺サレ、二十日夜火モ亦消シ、諸民安堵ノ思ヲ為シ、難有コト市中常ニ復セリ
右騒動ニ因テ弊家測量場・垂球儀、其外諸測器トモ急ニ土蔵ニ収メ家什等モ亦土蔵ニ収メ、御道具ニ附属シ奉リ、火変ノ景光ノ次第難波村迄之ヲ守護シ、立退クベキ心構へセシ事ナリ、其時ノ騒動、其時ノ事情筆帋ノ述ブベキ所ニ非ズ、諸測器球器等総テ急卒ニ取放ヅシ土庫ニ入レシホドノ事ナレバ、毀損セシモノアリ、球儀モ両器トモ損所セシナリ、騒動後暫ク測量モ為シガタシ
三月七日 甲申 此日晴或有雲、
此夜有雲
午正 ○十八万二千六百六十一半 西六百一十五半
東七百○十七半
較九十二行
【幕末の大坂城およびその付近図】(略)
坂本鉉之助のふるさとを訪ねる | 井形 正寿 |
信州・高遠
ここ数年毎年のように、長野県飯田・駒ケ根方面に旅行しているが、今年のお盆休みに坂本鉉之助の生れた高遠まで行ってみた。鉉之助の父坂本天山は、高遠藩・内藤家の砲術指南役。実家は高遠城郭内、大屋敷といわれるところにあった。鉉之助は寛政九年七歳の時に大坂の坂本駒太郎の養子として来坂している。
島野三千穂兄が村上義光兄とともに十六年前に執筆した「坂本鉉之助のある書状」(『大塩研究』一七号)のご両兄は、いずれも故人となられた。島野家に残されている、諏訪藩坂本八弥家文書六十点余にかかわるこの論考は、『大塩研究』一七号で発表されたとはいえ、二点ほどの文書の解説にとどまり、両兄が折角、宝の山を前にしていながら「未だ解明出来ないのが非常に残念である」としていたり「折角の坂本鉉之助の書状ですので、今後とも根気よく調査したい」として、その後は未発表のままになっている。島野兄は昨年六月二日急逝されているが、心残りであったと思う。その心残りを少しでも埋めることができればと、高遠まで足を延ばした。
鉉之助と鏑木堅蔵
島野兄からコピーとして頂いた資料に、同志社大学岡光夫教授の『坂本鉉之助の書簡−郷里の先輩に大塩の乱を伝える−』(同大学経済学会「経済学論叢」第27巻第3・4号=一九七九年)という史料紹介に坂本鉉之助が鏑木堅蔵に知らせた手紙のあることを書いている。この手紙は天保八年二月十九日の大塩の乱が飯田にも伝わり、鏑木が鉉之助に見舞状を出したのに対し、同年四月二十八日に返事として認められたものである。
私は、このことを思い出して高遠訪問の前日、飯田市立図書館を訪ねた。鏑木堅蔵は飯田藩士で坂本天山の門弟、鉉之助は父を通して知り合ったようである。図書館でもこれ以上のことはわからなかった。飯田城主堀家のことを調査されていた郷土史家村沢武夫氏には『信濃人物誌』などの著書があるが、この著書のなかからも堅蔵は見い出せなかった。ただ同氏著『飯田城主堀家』の明治三年庚午十月改「士族分限牒」に高六十俵内二十俵役高、学監鏑木堅蔵があった。恐らく島野兄も岡光夫教授の資料などから、堅蔵を追跡したものと信じたい。村沢武夫氏は数年前に八十九歳で逝去されており、蔵書は村沢文庫として図書書館収蔵されている。
高遠博物館と天山考案周発台
翌日、高遠町立歴史博物館を訪問。その数日前に高遠町の教育委員会に坂本天山の子孫のことを問合せをしていたところ、博物館の館長から問合せに対する回示があった。それは高遠には天山の子孫は一人もいない、天山研究の郷土史家もいないということであった。私の問合せの趣旨は、大坂の坂本鉉之助の墓は大阪市中央区中寺町の大倫寺にあるが、子孫の所在がわからないから、高遠・坂本家の子孫がわかれば、大阪・坂本家のことが少しはわかるのではないかと考えたのだが、高遠には坂本家の子孫は現住していないということだった。
ただ、さきの鏑木堅蔵の子孫の方が現在、京都にいられ、数年前に同家に伝わる古文書を博物館に寄託しているが、大阪の坂本家との係合を示す文書はないということだった。ほんとうは閲覧させて欲しかったのだが、明確にないといわれたので断念したが、後で後悔した。
中村文彦館長は旧国鉄(JR)に在職四〇年、古文書などに興味を持ち、町立図書館で古文書整理を手伝っている時、偶々、博物館がオ−プンされ、請われて博物館長になられたとかで、嘱託館長兼学芸員兼切符売りの一人三役ですと笑われていた。町立博物館とも思われないほど立派な鉄筋コンクリート造、二階建ての館だった。一階の第一展示室の真ん中に天山考案の五百目玉大筒、周発台の複製品がデンと飾られ、天山の遺品も展示されている。館の庭に、江戸城大奥に仕えた絵島が役者生島との仲を裂れて配流された「絵島囲屋敷」が復元されてある。
坂本天山の菩提寺・峰山寺
道順の都合で、博物館に行く前に坂本天山の菩提寺峰山寺を訪ねた。ここは城跡公園東側、月蔵山の麓、曹洞宗の閑静な寺であった。天山の墓に掌を合してから、案内して下さった寺の方に、身内の方の参詣をお聞きしたら、身内はいないということだった。なにげなく隣りの墓を見ると、坂本家とあるではないか。敢えてお聞きすると、諏訪市の坂本和夫家の墓であるといわれ、いつもお盆には墓詣りには来られる筈で、明日か明後日には見えられるということだった。あいにく住職不在で詳しいことを聞くことができなかった。
この時、頭の中を横切ったことは、さきの「坂本鉉之助のある書状」のなかで紹介されていた鉉之助から坂本八弥に宛てられた、あの長文の手紙(この春の「大塩平八郎と天満」のイベントで展示されていた)は島野兄が収集所蔵(今は、沢田平氏が所蔵)されていたものだが、この手紙のことが想い出された。
天山の姉で鉉之助の伯母佐野が、諏訪藩士岡村忠寔に嫁し、その三男八弥(俊通)が寛政七年、天山の養子となって砲術を学び、後年、諏訪侯に武術師範として召し抱えられているのだから、あるいは坂本八弥の係累の墓かと胸が躍った。帰阪後、早速、峰山寺の住職に問合せの手紙を出した。返事はまだない。吉報を待っている。
坂本鉉之助の追跡
坂本鉉之助は大塩平八郎のよき親友でありながら、大塩の乱では敵となって戦った。淡路町での弾丸一発は大塩勢を敗走に追いやった。しかし「咬菜秘記」に見られるように大塩のよき理解者であったことは明らかである。私も坂本鉉之助を追跡することによって、大塩平八郎の行動の神髄に迫る思いで一ぱいである。
畏敬する島野三千穂兄が、坂本八弥家文書をどこで、どう手にいれられたかはわからないが、島野兄にも私と同様の思いがあったのではなかろうか。
「補注」 坂本天山家の開祖は近江国坂本の出身であるから、坂本と名乗っていたが、天山の直筆署名ではこざと扁の阪本が使われている。高遠方面で刊行されている文献・資料は坂本、阪本が混用されているが、最近は概ね「阪本天山」に統一されている。
報告
前回に「平野郷参加して」の拙文で紹介した「辻葩(つじはな)家文書」の「記録」について、村田氏から『大阪の歴史』第12号(昭和59年3月)に翻刻されていることを御教示いただいた。この場を借りてお礼申し上げます。