発行人 向江強/編集 和田義久
目 次 第131回例会 「塩逆述 巻7 上」 (16)無名氏申来書 ○高崎藩 (17)井伊右京亮家来書 ○相撲・綾川 ○「平野郷を訪ねる」参加記 ○「大塩後素の遺子」(天尊道人)
第131回例会(『塩逆述』からは第61回)は六月二六日に開催、巻七(上)の三八丁から四一丁まで読み進んだ。昨年10月からとりかかって8回で巻七(上)は読了した。参加者は、二十人であった。
(16)無名氏申来書
乱の状況及び自分の周囲のことを書き送ったものである。この筆者は誰か、高崎藩蔵屋敷の者であろうということになった。調べてみると、次のようなことがわかった。天川屋、加島屋はいずれも高崎藩の出入りの町人である。宛先は、江戸か高崎本国であろうか。「綿屋」は天保14年の「大阪持丸長者鑑」の「三千」のところにリストアップされている9丁目の「綿屋太兵衛」のことか。「猶」以下は報告に書き添えたものと思える。また、「天川屋」は『大阪市史索引』には、「あ」のところに収録されている。
○高崎藩○
天保の乱当時の藩主は、松平右京亮輝承(てるよし)、八万二千石。先代、先々代は大坂城代も勤めている。蔵屋敷の所在地は天満九丁目角。留守居・松井清左衛門、名代・天川(河)屋甚右衛門、蔵元・加島屋久右衛門、用達・塩屋庄吉。なお、『地方凡例録』を寛政期にまとめた大石久敬は高崎藩士である。
参考:『大坂袖鑑』天保期、『江戸諸藩要覧』井上隆明編 東洋書院 1982
(17)井伊右京亮家来書
井伊は青谷口加番である。乱参加者の名前は必ずしも正確ではない。 橋本忠兵衛が、「鬼灯」忠兵衛となっている点が興味深いと、向江先生から指摘があった。
また、角力綾川は一心寺に墓があると、会場からご教示があったが、これはどうも違う「綾川」である。
時期的には次の人ではないかと思う。城内の固はさすがに正確であるが、「百騎衆」というのはどういうものか疑問が残った。
○相撲・綾川
池田市営墓地(桃園二丁目)に相撲関係の墓が十数基あるが、綾川のものが無縁墓の後方に積まれているらしい。
「猪名川又右衛門」天保四年七月、大坂相撲の中から上に昇った綾川豊吉(藤島門人、前名・荒熊)は、弘化二年引退、世話人となり、嘉永三年猪名川を襲名、番付からは名が消えている。
(参考『相撲の史跡 5』相撲史跡研究会 1987)
『浮世の有様 第四』に次のように出ている。
(和田氏が例会に間に合わなかったため、代わりにまとめました。N)
「平野郷を訪ねる」参加記 | 和田義久 |
大 塩 後 素 の 遺 子 | 天尊道人 |