発行人 向江強/編集 和田義久
目 次
第133回例会報告
「塩逆述 巻7 中」
(4)間五郎兵衛 佐藤捨蔵への書(承前)
@清末藩
A野中兼山と先哲叢談
B『孝経彙注』と確斎
C米の値段について
D堀と林述斎との関係
○「天保期の米価について」
○「大塩中斎 絶版書目」
○編集後記 「著名家臣通信簿」
第133回例会(『塩逆述』からは第66回)は八月三十一日に開催、巻七(中)の三丁から八丁まで読み進んだ。参加者は、一七人であった。
(4)間五郎兵衛 佐藤捨蔵への書(承前)
「一段昼まも上下共危踏候心持二御座候」とあるが、これは国会図書館版では「一段人気」とある。「靱町と申ハ私宅近辺よりハ拾四五丁も北ニて御座候」とあるが、間五郎兵衛宅は、長堀冨田屋橋北詰だったので、間違いなく靱町はちょうど北にあたる。
間五郎兵衛は、「平八郎急迫酷烈高慢之極ニ至り、終ニ徒党をかたらひ、此逆乱を発し天罰を蒙り候事、言語ニ可申述候様も無之、幾多の世の害を致し候事やらん、放火ニ逢候者、貧富共ニ難儀筆紙ニ難述候」と、非難している。この評価が、間五郎兵衛の本心であったかどうかの判断は保留しておきたい。あとは、質問なり、わからなかった事項について、調査結果を載せておく。
@清末藩 「清末藩士渡辺秀甫」からの話を紹介してあるが、清末藩は毛利藩の支藩で、歴史辞典で調べると、下記のとおりであった。
【清末藩】長門国清末(現、山口県下関市)に陣屋を持つ外様小藩。萩藩支藩。一六五三年(承応二)長府藩主毛利輝元の叔父元知が、長府藩から一万石を分与されて立藩。徳山・長府両藩と同列に萩藩の三支藩として扱われた。一七一八年(享保三)藩主匡広が本家の長府藩を相続したため一時中絶するが、のち匡広の七男政苗に旧清末領が与えられて再興。以後六代にわたる。詰席は柳間。藩校育英館(一八七八設立)。廃藩後は清末県となる。(『日本史広辞典』)
A野中兼山と先哲叢談
平八郎の行状を野中兼山に引き合いに出して、批判している。しかし、確斎の比較の妥当性を推し量るには、野中兼山や先哲叢談について知って置かなければならないということで、向江先生から説明があったが、ここに再度紹介しておく。
【野中兼山】1615-1663 江戸前期の高知藩家老・儒学者。父は良明。一六三一年(寛永八)奉行職となり、三六年養父直継の死により家督を継ぎ六〇〇〇石。谷時中について南学を修め、その封建教理を施政方針として、河川の改修、新田開発、郷士の採用、専売制の実施など藩政を推進。五四年(承応三)の小倉勝介・三省父子の死後独裁化し、六三年(寛文三)一門や重臣の弾劾により奉行職を解任され失脚、野中家は改易となった。(『日本史広辞典』)
【先哲叢談】せんてつそうだん 江戸時代の著名な儒学者七二人の言行・逸話などを収録したもの。八巻。原念斎著。一八一六年(文化一三)刊。記事は年代順、箇条書で五五〇条。儒学者の思想を論じたものではないが、現在では知ることのできない多くの逸話が収録されており、各々の人間像を垣間みることができる。佐藤一斎・朝川善庵の序がある。出典は明示されていない。本書刊行後、三〇年(天保元)に東条琴台きんだいが「先哲叢談後篇」八巻を刊行し、儒学者七二人について六七九条を記している。「東洋文庫」所収。(『日本史広辞典』)
B『孝経彙注』と確斎
「孝経蔵板の名前を借申候ハ無拠被申懸候て名を借り申候迄ニ御座候」とあるが、大塩の著作である『孝経彙注』の出版にあたって、蔵板主として間五郎兵衛の名前を借りたということである。「借り申候」は、大塩が「借りた」と解釈しないと、意味が通じない。ところで、『孝経彙注』を大阪府立中之島図書館で調べたが、間五郎兵衛の名前が出てこなかったが、『享保以後 大阪出版書籍目録』を調べると、下記のとおり大塩中斎の書目の中に出てきた。また、『洗心洞箚記』も、蔵板主が間五郎兵衛となっていた。今田洋三氏が「天保期の大坂の出版界」という講演で、「寛政期に停滞気味であった大坂の出版界が、天保期に上向傾向を示したのには、大塩の著作の果した役割が高いこと、間五郎兵衛(天文学者・質屋)が大塩著作の出版に資金源としてつながるのではないか」(「洗心洞通信20」『大塩研究』第25号1989.3)と、名前だけでなく、資金も提供していたのではないかと、問題提起されていた。
また、斎藤方策は、大坂の医者であることが『国書人名辞典』に載っていたが、平八郎との関係は不明である。
【大塩中斎 書目】
三魚堂文集 唐本翻刻
外集附録共八冊
丁数五百八十丁
点者 源 後 素
(大坂)
板元 小川屋市兵衛
(本町五丁目)
出願 文政十二年正月
許可 文政十二年正月十八日
呂新吾先生語録序 一冊
丁数九丁
撰者 源 後 素
(浪華)
板元 河内屋太助
(唐物町四丁目)
出願 文政十二年二月
許可 十二年二月廿五日
増補孝経彙注 三巻
撰者 源 後素
蔵板主 間五郎兵衛
売払 河内屋吉兵衛
(南本町五丁目)
出願 天保六年四月
儒門空虚聚語 三冊
撰者 源 後素
蔵板主 斎藤方策
(南江戸堀三丁目)
売払 河内屋喜兵衛
(北久太郎町五丁目)
出願 天保六年四月
許可 天保六年五月朔
洗心洞箚記 五冊
撰者 源 後 素
蔵板主 間五郎兵衛
売払 河内屋喜兵衛
(北久太郎町五丁目)
出願 天保六年五月
許可 天保六年五月
『享保以後 大阪出版書籍目録』(大阪図書出版業組合 1936)
【斎藤方策】さいとうほうさく 医者〔生没〕明和八年(一七七一)生、嘉永二年(一八四九)十月八日没。七十九歳。墓、大阪天王寺梅旧院。〔名号〕名、淳(順)。字、素行・尭文。通称、方策。号、九和・半山・弧松軒・看松斎。〔経歴〕周防佐波郡一本松の人。医を能美由庵に学び、大阪に出て小石元俊に蘭学を学ぶ。京都・江戸に遊び、大槻玄沢の門に入り、蘭方を専修した。大阪で医業を開き、文政五年(一八二二)の日本全国に及ぶコレラ禍の時、治療に効果をあげた。のち長州藩に招かれ、年米二十五俵を給された。
〔著作〕弧松軒随筆 天行病説 痘瘡紀聞 痘瘡治療秘伝 押而翕湮解剖図譜下編訳〈文政五〉 漫遊諸名家問答録
〔参考〕増補近世防長人名辞典 大阪人物誌正編 洋学史事典 明治前日本医学史(『国書人名辞典』)
C米の値段について
「壱升上米ニ而弐百五十文位に成」とあるが、壱升は壱石の間違いではないかとの疑問が出されたが、明確にできないので、後日の調査にまかされた。
なお、後日、松浦さんから原稿が届いた。
D堀と林述斎との関係
新任の西町奉行堀伊賀守は、林述斎の娘婿にあたるため、たぶん佐藤一斎から様子を聞かれていたので、追伸で答えたのであろう。
【林述斎】1768-1841 林述斎は、美濃国岩村城主(三万石)松平乗蘊の三男。幕命により、林信敬の養子となり、羅山から八代目の祭酒、大学頭となる。老中松平定信とともに学政改革に当たり、昌平坂の別邸を孔子廟とともに、幕府の学問所として、儒官・属吏の任命、学生の寄宿、試験などの制度を整備した。
述斎は、正妻を持たず、側室ばかり数人を持って男女十七人の子を儲けた。第七子(四男)が鳥居耀蔵。二女は堀利堅に嫁して生んだ子が、幕末史にその名を残す利熙であり、三女が設楽貞丈に嫁して生んだ子が、のちに岩瀬家にはいった岩瀬忠震であった。(松岡英夫『鳥居耀蔵』中公新書)
| 先 哲 叢 談 |
(『先哲叢談』原念斎著 源了圓・前田勉訳注 東洋文庫574)なお、訳注は省略。
原念斎が『先哲叢談』を著してのち、東条琴台が「先哲叢談後篇」八巻を刊行したが、その中に「阪本天山」が取り上げられていることをNさんから教えてもらった。
(『近世文芸者伝記叢書』第五巻 ゆまに書房1998.8)
| 天保期の米価について | 無量図書館 松浦 木遊 |
八月の例会で、間五郎兵衞より佐藤捨蔵宛書簡中、天保期の米価につき、小生疑問を抱き質問したてまえ、少し調査しましたので報告致します。
結論:塩逆述記載の米価は、米一升当りの価額です。〔小生米価の単位は一斗ではないかと質したのは誤り〕
その後の調査結果報告
資料@ 大坂における幕末米価変動史/鈴木直二著/国書刊行会/一九七七年、天保年間の米価変動 三一〜三二頁に天保八年の月毎の白米一升当りの小売り直段が掲載されて居りました。
乱の前日十八日 /百七十六文 二日後の廿一日朝/二百十八文 同日夕方/二百廿四文 同年中最高値七月/三百九十六文資料A 日本米価変動史/中沢弁次郎著/明文堂/一九三三年/第二編第二章徳川時代の米価年表二五七頁 白米一升(大坂米価)として月毎の米価記載あり。
因みに、
一月/百七〇文 二月/二百五〇文 七月/四百文 十二月/百二〇文この米価の出典は『難波土産』だそうですが、同名類似の古典数多くあり、原典まで遡っての確認未完。
尚、日経新聞八月廿一日の文化欄「いくらかかった?奥の細道」で、執筆者が二八そば(十六文)を選び現在のかけそば代金五百円、銭湯八文、現在二百四十円などから、一文を三十円と試算されたのを、そのまま天保期の米価を換算したのは誤りでした。
当時の米価は、兵火/作柄/貨幣の改鋳などの因子により大きく左右されたのを失念した結果の誤りでした。
この点につき、先の資料A日本米価変動史中、
天保四年の米価、百文で白米五合五勺(九月) 天保五年の米価、百文で白米六合五勺(春)とあり、いずれも出展は『燕石十種』とありましたので、同原典を閲覧するに以下のことが判明しました。
即ち、前記『燕石十種』の中の塵塚談は小川顕道著で〔米穀高直〕の項に、天明四年甲辰春米穀高値也都て云々とあり。
二月廿六日、藤沢宿穀物直段 銭百文に付白米六合 三月廿六日、同 上 銭百文に付白米六合五勺と列記されていることを発見しました。
汚名挽回のため、天明/天保期の銭百文で買える白米平均六合として、現在一`c/約六合/相当の白米の価額六〇〇円から換算すると、一文は約六円という計算になり、やっと辻褄合わせができました。
(九月一日記)
資料@ 天保年間の米価変動 鈴木直二著
(p522 略)
朝日新聞9月17日付けの日曜版「名画日本史」のシリーズで、渡辺崋山の鷹見泉石が取り上げられていたが、「著名家老通信簿」というコラムに野中兼山が取り上げられていた。