Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.1

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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第43号』


2000.11.27

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇


目 次

(7)大番衆よりノ書(承前)
 ・「馬場」について
 ・「岡翁助」の手紙
(8)松浦肥前守蔵屋敷よりノ書
 ・蔵屋敷配置図 ○「平戸展と松浦静山」

○「かくれた史実」
○新刊紹介 『鴎外歴史文学集 第2巻 』『島抜け』
○映画「郡上一揆」ロードショウ
○忘年会案内


第135回例会報告

第135回例会(『塩逆述』からは第68回)は一○月三○日に開催、巻七(中)の一一丁から一六丁まで読み進んだ。参加者は、新規の方を含め一五人であった。

(7)大番衆よりノ書(承前)

 資料の前半は、大塩の乱のあらましを報告し、後段では自分の所属している「御番」の行動を知らしている。それによると、 

 一九日の夜に入っても、自昼のごとく提灯が灯され夜軍のようで、火矢などを警戒し、土居廻りをひっきりなしに見回った。夜明けになっても鎮火しないので、一層警戒するよう達しがあり、二○日夜になってようやく火は静まった。土居廻りでくたびれた。二一日朝から南風にて雨が降りだし、少し静かになった。お城に出入りしている町人たちの大半が焼け出され、特に舂入屋の「倉橋」と「彦七」は丸焼きで、これには一同困った、と。

 馬場は、以前にも話題になったが、「外濠の西から南にかけて、俗に馬場と呼ばれる空地と芝原が広がり、馬場町の町名の起源ともなった。」という。(原田伴彦『大阪古地図物語』)。

 ところで、「自分妻子共十八日刺殺」とあるが、これは事実と相違するが、同じような内容が他にあることをNさんから教示いただいた。

 「浮世の有様」の巻六 九、遠州稗原杖村上庄司より来状の写岡翁助の手紙があります。

 「大塩平八郎家内不残切殺」というのは、どうも城方の間での噂として広がっているようですね。

(8)松浦肥前守蔵屋敷よりノ書

 この史料は、「甲子夜話」(『甲子夜話』東洋文庫版)にも収録されている。「甲子夜話」は、平戸藩主であった松浦静山の著書であ一る(別稿を参照)。

 平戸藩の大坂蔵屋敷は、堂島、今のフェステイバルホールにあたり、史料に出てくる「岡御屋敷」とか「中川様御留守居」とあるのは、豊後国岡の中川氏で、その蔵屋敷は平戸藩蔵屋敷の西へ三つ目で、近所だった。(図参照) 【省 略】

 松浦史料博物館発行の『史都平戸』の年表には、元和六年 1620 大坂中之島に蔵屋敷を購う」とある。

 平戸藩の大坂蔵屋敷では、乱のあった夜から警備にあたっていたようだ。例会で問題になった「夜前」は、「タ方」という意味ではなく、辞典がいうように「咋夜」の意味で、 一昨夜に続き昨夜も跡部山城守より詰めてほしいと依頼があって罷り出たと解すべきであろう。先の『史都平戸』には、「天保八年 1837 大塩平八郎乱起り、老臣葉山高行大坂邸を守り事なきを得」と記している。

 また、吹田渡州について議論があったが、『摂津名所図会』に亀山街道の吹田の渡口について、「吹田村より西成郡新庄村へのわたしなり」とある。吹田の宮脇志摩へ行くために利用したのであろう。

 ところで、例会では問題にならなかったが、文中の「天満与力之内、御館入も御座侯ニ付」とある「館入」とはどういう意味だろう。藪田氏が次のように説明する「御館入与力」のことか判断がつかない。とりあえず参考にあげておく。 

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 神戸の市立博物館で「平戸・松浦家名宝展」をしていたので見に行きました。松浦史料博物館の初めての大掛かりな館外展示です。

 坂本天山は鉉之助を伴って各地で砲術指南をしていますが、平戸藩にも招かれ、長崎の平戸藩蔵屋敷で亨和三年歿しています。幼少の鉉之助は平戸藩士につきそわれて大坂にもどりました。

 平戸藩の当主は天保八年当時35代松浦煕(まつらひろむ)。先代清は文化三年(一八〇六)に隠居しています。松浦静山(まつらせいざん)として知られる人ですが、文政四年(一八〇六)甲子の年天保十二年に八十二歳で歿するまで毎日書き残した『甲子夜話』は、林述斎に勧められて書き始めたということですが、いろいろ引用されることの多い貴重な文献で、大塩の乱について考える上で無視できないのものです。丁寧な筆で書かれたものが一部展示されていました。

 学芸大名とも呼ばれますが、静山は文武に秀でた大名で、若いころは青雲の志を持って、賄賂を贈ったりしたようですが、夢果たせず、四十七歳で隠居しています。その施策には見るべきものが多くあります。展示されていた資料の多くも、彼の収集したものだということです。大塩の乱についての情報の収集も、その一環であったようです。

 その情報源は、豊富な人脈にもあるようです。子供も33人。

 静山の室は松平伊豆守信明の妹。子煕の室は松平定信の女。

 曾祖父の室は稲葉丹後守の妹、曾祖父の姉妹は酒井備中守、牧野伊予守、織田讃岐守、新庄土佐守板倉周防守にそれぞれ嫁しています。

 祖父の姉妹は牧野備後守、本多越中守に、父(夭折)の姉妹は、稲葉但馬守、永井若狭守、木下肥後守、本多弾正に嫁しています。

 静山の娘は、永井飛騨守、松平右近将監、黒田豊後守、中納言園基茂、中納言姉小路公達、大納言中山忠能に嫁しています。

 系図には記載されていませんが、『未刊甲子夜話 2』p362に、「岸和田老侯ハ、近頃予ガ孫ノ婚家トナリ、親ク往来セシガ、今ハ帰国シテ彼地ニアリ」というものもあります。  交友知己は、徳川斉昭、真田幸貫、林述斎、佐藤一斎、皆川淇園、木村蒹葭堂、小石元俊、太田蜀山人、屋代弘賢、近藤重蔵など。

 隠居後の静山は、一万余坪の本所下屋敷に、年間一万石の手当と金三百六十両を支給されています。屋敷には、お抱え力士も住み、大坂出身の者から、大塩の乱の情報を得ています。

 なお乱当時の大坂留守居のひとり葉山左内は、若いときに佐藤一斎に師事した人で、のちに吉田松陰も訪れたほどの人です。

 展示は、このあと岡崎・福山・福岡と回るようです。(N)

●参考文献●
『未刊甲子夜話 2』有光書房 1969
『甲子夜話 3篇3』『同 4』(東洋文庫)平凡社 1983
『史都平戸 −年表と史談−』松浦史料博物館 改訂8版 2000
『平戸・松浦家名宝展 −はるかなる千年の歴史−』朝日新聞社西部企画部 2000
『殿様と鼠小僧 −老侯・松浦静山の世界−』氏家幹人著 (中公新書) 中央公論社 1991
『大名列伝 5 学芸篇』人物往来社 1967
『新・日本大名100選』秋田書店 1991
『歴史読本 第22巻第7号 特集 徳川300藩血族総覧』新人物往来社 1977.6
『歴史読本 第37巻第3号 特集 おもしろたのし大江戸名物大名』新人物往来社 1992.2

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 光格天皇は父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたいと考え、天明八年(一七八八)その先例を公卿中山愛親、正親町公明に調査させ、寛攻四年(一七九二)右の尊号を贈ることを幕府に通告された。

 ときの老中首座は松平定信であった。光格天皇が尊号を贈ることも押え、先例を調査した中山愛親に閉門、正親町公明に逼塞を命じた。・・(尊号事件)

 幕府の処置に憤激した愛親と公明は、従二位陰湯頭ト部、武者小路公薫らと計り、三千両と五千両を再度小判で鋳造し、それを軍用金として討幕計画をすゝめ諸国に同志を募った。

 これが幕府に知れ、武者小路は大和へ、ト部は摂津へ流罪となり、愛親の子中山忠伊は文化六年(一八〇九)十月、自宅で自刃した。

 自刃した忠伊の孫も忠伊といった。孫忠伊は十七才であったが、光格天皇の勅命により、祖父の遺志を継ぎ尊王倒幕運動に挺身した。

 大阪安堂寺町に寓居し、大谷源三、荻野勇左衛門と語らい二人を伴って、阿波の穴吹、祖谷、淡路、明石、・・・高野山、紀州各地を転々とし、天保四年(一八三三)大阪に帰って大塩平八郎と謀議し、但馬城崎に行って出石藩家老仙石左京と山陰の同志を集めて、討幕の兵を挙げることを相談した。仙石左京は、忠伊の命を奉じて画策中、幕府に探知され、お家騒動として処刑された。(仙石騒動 一八三五)   大阪歴史散歩・・創元社。この二年後の天保八年二月(一八三七)に大塩の乱が起きるのであるが。

 「扨此度一揆之張本人ハ町奉行跡部山城守組与力天満組屋敷ニ住居罷在候当年四拾三歳大塩平八郎入道道心と申者ニ而元来切支丹之法ヲ行候由二三年以前ヨリ反逆之企有之由仙石道之助之家来浪人並松平周防守家来モ加リ候由」・・塩逆述巻之四 二十五丁

 中山忠伊は平八郎と大阪にて謀議し、又但馬出石藩の仙石左京と討幕計画を策した。又、平八郎の挙兵には仙石道之助の元家来が参加した。等と有るが、平八郎の発心時を表わした書物は少ない。これらの説から一八三四頃ではなかろうかと推察出来るが読む会としては如何がなものであろうか。

〔以下参考〕

 松平周防守康任の弟主税康口の娘左京の忰小太郎ニ嫁ス。周防守は仙石家の内紛に暗躍し、病気理由に老中を辞職後隠居、急度慎みとなった。天保六年十二月である。 仙石腰動 宿南保著。

 天保六年、大塩は江戸召命の噂があり、彼は大変喜んだが、なぜか話が沙汰止みとなり失意した。このことが 蜂起の決意に影響を与えた可能性を諸研究が示唆している。然し大塩は、幕府から登用されるとは決して思っていなかったのである。従って、江戸召命一件は大塩が蜂起を決心した原因とは全く関係がない。・・相蘇一弘 (大阪の歴史54)

 大塩は前年の十二月頃から決起の決意をかため・・大塩平八郎と民衆(大阪人権歴史資料館)

 「先祖の英名を今又天下に施し候犠到来とひ竊に喜候」まで大塩が期待したこの幕府への任官はなぜか実現せずに終ってしまった。そして国政の場に抜擢され、中央で封建社会のたて直しに献身するという夢が破れたことは、のち大塩に挙兵を決意させる一因となったと推定される。・・相蘇一弘(大阪の歴史21)*1

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◆新刊情報

・『鴎外歴史文学集 第2巻 』岩波書店 2000
予告から遅れてやっと出版されました。註釈は藤田覚氏。月報に関川夏央氏の「大正政変と『大塩平八郎』」、永井荷風「隠居のこヾと」がある。註釈は各ページごとにあり、人物だけ巻末にまとめている。『森鴎外全集第3巻』(筑摩書房 1962)の尾形仂氏の語注を参考にしていますが、両方を見ながら鴎外を読みなおしてみるとよいと思います。

・『島抜け』吉村昭著 新潮社 2000
雑誌掲載の標題作ほか短篇3作を収録。天保の改革の取締りのため、島送りという重い刑を受けた大坂の講釈師が主人公。安治川から種子島への島送りの道中も、史実に忠実な吉村氏の手になるので参考になりそうです。

◆映画「郡上一揆」ロードショウ
大塩の乱の本格的な映画が待たれていますが、神山征二郎監督の映画がお正月に上映されます。一揆のような地味なテーマの映画が二十一世紀の幕明けを飾ることになります。岐阜の地元の大きな協力のもとに「支援の会」なども組織されたようです。結末にちょっと不満の残るところがありますが、裁きの場面など、大塩もこうだったのか、と思わせられるものがあり、興味深い映画です。新劇のベテラン俳優も多数出演しています。

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