Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.1.31

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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第44号』


2001.1.29

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇


      目   次

第136回例会報告

(9)藤堂家出入町人よりノ書
(10)西条藩御七里役 来書
  ・七里飛脚
  ・御七里役所之趾
(11)御城代御届之内姓名覚
(12)加番よりノ書
  ・加番
  ・藩

○吹田渡州考
○中之島図書館は宝の山
○川村修就の日記から


第136回例会報告

 第136回例会(『塩逆述』からは第69回)は一一月二七日に開催、巻七(中)の一六丁から二一丁まで読み進み、巻七の中を読み終えた。参加者は、一五人であった。

(9)藤堂家出入町人よりノ書

 藤堂藩の大坂蔵屋敷は、大塩邸がある与力屋敷の真北にあって、焼失したと思われる。さて、この出入町人は誰に出した書簡か、宛名がないので不明である。乱の様子など書き送っているが、とくに目新しいことはなかった。

 ただ「何等之為騒動ニ及候事か趣向一向相分兼申候」とある。

(10)西条藩御七里役 来書

 西条藩は、伊予国新居郡西条(愛媛県西条市)を藩庁とした親藩小藩。1690年紀州藩徳川頼宣次男松平頼純が入封した。同氏は家門の定府大名で、宗家との血縁も深く、合力米三万石が支給された。  また、七里役とは、「尾州家、紀州家などが東海道筋七里ごとに宿をおき、そこに中間を置いて、江戸から国許への急便を中継する役の人」で、西条藩も、紀州藩にならって置いたのであろう。

【七里飛脚】
 江戸時代の大名飛脚の一種。七里ごとに継所を置くので、この名がある。名古屋・和歌山・福井・姫路・松江・津山・高松・川越の各藩が知られている。(後略)藤村潤一郎「七里飛脚」『日本歴史大事典』

 名古屋藩や和歌山藩が藩庁と江戸藩邸との連絡のために、七里ごとに設けた飛脚、扶持を与えて各七里役所に輸送勤めの七里の者をおいたが、和歌山藩は二人、名古屋藩も1669年(寛文9)に3人から2人にした。(中略)。

「尾州紀州七里飛脚之事」には紀伊殿御城附挨拶として、

 ここまで書いてきて、平成一一年の春、由比宿を観光した際、「御七里役所之趾」の碑文を写真に撮ってことを思い出した。その説明文は、簡潔明瞭で、私たちが知りたいことを十分書き込んであり、歴史事典の解説とは違った趣があるので、重複を厭わず収録した。(句読点は和田が適宜うった)

(11)御城代御届之内姓名覚

 大塩一党の名前があがっているが、正確さを欠く。 例えば、東小嶋村は、正しくは森小路村で、宝永2年(1705)以来幕府領であった。その支配を預かったのが大坂の代官であった(和田「根本善左衛門」を調べる−『読む会会報12号』)。ここに名前のあがっている御代官根本善左衛門は、鈴木町の代官であった(「大坂御役禄」天保8年年頭及び八朔)」。

(12)加番よりノ書

 この文書は、加番の米津伊勢守藩から前任の加番酒井右京亮藩臣への書状である。

 城代から評定するので、早々出てくるようにとの命令があって、加番の4人に加え、定番(遠藤但馬守)と両御番頭(菅沼織部正・北条遠江守)が集まったとある。

 城代からは、乱のあらましを説明したあと、万一虚をついて、城を攻めてくるかもしれないので、糧米、具足、鉄砲をもち、銘々持ち場の狭間配りして厳重に備えよとの下知があった。

 大塩の乱前後の青屋口加番を「大坂御役禄」から拾ってみると、天保6年年頭前田大和守、同6年八朔酒井右京亮、同7年年頭酒井右京亮、同7年八朔米津伊勢守、同8年年頭米津伊勢守、同8年八朔松平石見守であった。つまり、一年交替で八月替わり。

 「堀伊賀守殿之乗馬ニ中り馬倒レ、堀公真逆様ニ被落候得共怪我ハ無之、徒立にて其儘駈引差図被致候事、勇敷相見エ候由」とある。幕府役人の不甲斐なさの引き合いに堀伊賀守の落馬が出されるが、ここでは「勇ましい」との評判を書き留めている。落馬後の指揮ぶりを褒めているのだろう。

 また、大手前の町奉行所松並木松原に多くの人数が集まっているので、敵方かと緊張していたところ、尼崎藩からの援兵との注進があったので、一同安心したと、伝えている。

【加番】
 江戸時代、正規の勤番(本番)の加勢として勤番すること、あるいはその人をいう(火付盗賊改等、役人の加勢は加役といった)。幕府の職制となったものに大坂加番、駿府加番がある。大坂加番は大坂城の警衛役で、大名の任。同城には定置の城代(一員)と定番(二員)がおり、また幕府直属の軍隊である大番(二組)が一年交代で在番したが、これを補強する軍事力として置かれた(三員のち四員)。大番と同様一年交代で、山里・中小屋・青屋口・雁木坂加番として城内各所に配置。駿府にも城代・定番(各一員)と在番(はじめ大番のち書院番)のほか加番(二員のち三員)が置かれ、小大名と大身の旗本がこれに補された。勤番者には合力米が給された。(松尾美恵子「加番」『日本歴史大事典』)

 最後に、「藩」という言葉が使われているのが、当時「藩」という言葉は正式に使われていなかったとの意見が出された。指摘の部分は元史料ではなく、編纂時に付けられた表題であることから、この『塩逆術』がいつ編纂されたかは不明だが、その時点では「藩」という言葉が普通に使われていたのではないかと考えられる。

【藩】
江戸時代の大名領域およびその支配機構をいう。藩という言葉は本来古代中国封建制において、天子から諸国に封じられた王侯の領国を意味した。江戸時代これになぞらえて、儒者などを中心に徳川将軍家に服属していた大名家を藩とよぶようになった。ただし江戸期における公称ではなく、明治維新直後の1868年(明治元)新政府が府藩県三治制をしいたときに、旧幕領である府・県に対し旧大名領がはじめて藩とよばれた。71年の廃藩置県により消滅。(『日本史広辞典』)

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 吹田渡と云うのは、今は名所としての名残りを留めるのみとなっている。渡し跡に建てられた、吹田市教育委員会の説明によると、このあたりは、もと神崎川の船渡しであった吹田の渡しがあったところです。この渡しは大阪から丹波へ向かう亀岡街道の渡しで、西国街道にもつながり、また古代では三島路であったと見られる交通の要地で、「摂津名所図会」などにも記されています。かつて、三国川と呼ばれていた神崎川は、奈良時代末期に淀川と直結し、京都と西国をつなぐ水路として発達しました。そこ頃から吹田は津(港町)として栄え、また、その景勝をたたえ、貴族たちが訪れました。吹田の渡しは、もとは川幅も広く、堤の間が約二百三十間はあり、ここを渡し船が通いました。

 明治になり、鉄道開設により、水運が衰え始めましたが、昭和の初めまでは吹田浜には回漕業者があって、にぎわっていました。

 江戸初期では渡し船は一艘でしたが、幕末には五艘になっており、大正時代の記録では一艘に三十人、牛馬五頭を乗せることができました。明治八年に渡し船は廃止され、有料の高浜橋が架けられました。(一部割愛)

 以上が吹田の渡しの大略の歴史です。が、この神崎川の船渡しである吹田渡しは、既に中世からあり、大阪夏の陣には、落人が多くここに殺到したらしく、

 ちなみに、吹田渡州と云う地名はなく、州=す・しまと発音し、なかす、川の中の小島。砂がたまって水面に出た陸地の意があるようで、渡は済と書かれたものもあります。したがって、表題の渡州は、渡し場のある、川中の砂だまりの陸地とでも云うのでしょうか。また吹田津と書かれたものは、亘節著『吹田志稿』に出ています。一部拾ってみますと、

 天正十年十月羽柴秀吉も、摂津吹田津に、禁制を、天正十一年には池田輝政や丹羽長秀も禁制を与えているし、豊臣秀頼も慶長十九年十月(大阪冬の陣)摂州吹田津に禁制を下して………云々と津の文言を多く使っています。

 この津は浅瀬の船着場。渡し場の意であり、吹田渡しと同意だと思います。

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一昨年六月に急逝した島野三千穂氏が、生前いつも云っていた言葉に「中之島図書館の玄武洞文庫は、大塩研究にとっては宝の山だが、このことはみんな知っているのだろうか」という呟きがいまも耳にのこる。

 府立中之島図書館に行くたびに、私はこの島野氏の言葉を思い出しては、田結荘千里(但馬守約)ゆかりの玄武洞文庫にアタックするが、検索に弱いので遂に文庫の存在を確認できない儘になっていた。

 最近、島野氏が残していったメモ・コピーなどを整理していたところ、「玄武洞文庫目録2」の冊子コピーを見つけた。この目録の後記は次のように書かれている。

 以上の記述から、玄武洞文庫が図書館に収蔵された経緯がよく理解された。

 私は、早速と年末・年始の二日にわたって文庫の確認へ図書館へ行った。今度は、三階大阪資料・古典籍室の親切で老練な担当者によって文庫の所在を確認することができた。この時、閲覧した『玄武洞文庫解題目録』に記載されているのは、昭和四十五年春秋二回にわたって寄贈された、古典籍を主とした百三十四部、三百一冊、それに千里翁の自筆稿本十三部、五十五冊が付載されている。

 この解題目録に目を通すだけでも目をひくものが多々あるが、なかでも『奉納書籍聚跋』は一見に値する。大塩平八郎は天保四年八月伊勢宮崎文庫に『朱子文集』『王陽明先生文鈔』『古本大学』『象山先生全集』『伝習録』五部を奉納した際、本の巻末に書き記した識語(跋文)を自筆のまま刻し私書版としている。収蔵本は裏打ちされているとはいえ、極めて保存状態はよい。「五味図書」「慎独」「洗心洞主人」の朱印が押されてあって、平八郎献本気概が脈々と伝わって来る。

 昭和五十年一月に寄贈された古典籍・古文書・大塩の乱の風聞書などから明治、大正、昭和にわたる文献・資料は『玄武洞文庫目録2』に記載されている。寄贈の総部数、冊数は発表されていないが、私の計算では、大塩平八郎関係資料五五部七十二冊。陽明学関係資料七十九部百十一冊である。このなかの大塩平八郎関係資料に、貴重本、平八郎旧蔵『資治通鑑綱目』三編六冊がある。これには田結荘千里の籍書があって「是書、中斎先生かつて愛読の一本なり」などと漢文で書かれている。

 この目録には、このほか『孝経』『古本大学刮目』『儒門空虚聚語』『洗心洞学名及学則并答人論学書略』などの原本。『浪華騒動記』『大塩実録』『浪華塩之満干』などの風聞書の写本。坂本鉉之助の「咬菜秘記」が連載されている活字本の雑誌『旧幕府』などは、ぜひ手にとって見て欲しい。

 確かに玄武洞文庫の目録に一通り目を通しただけでも、島野氏が云うように大塩研究を志す者にとっては宝の山である。島野氏はそれを実践するかのように図書館に通い、時にはコピー、時にはノートされていたが、それらがいまも残されていて感慨深い。

 今回の玄武洞文庫の検索でわかったことは、館収蔵の古典籍(和装本)と玄武洞文庫はコンピュータに入力されていないので、三階の大阪資料・古典籍室備付の玄武洞文庫カード目録か、文庫冊子目録で書名・資料名・請求記号を見つけ出し、「書庫内図書請求票」で閲覧を申請することになる。私はカウンターの担当者に相談にのって頂いた。

 さきに書いた『資治通鑑綱目』を指定席で見せて頂いた時、かねて大塩自筆のものがあると聞いていたので、担当者にお聞きしたところ、『大塩後素自筆題簽集』(甲和七〇六)を書庫から同時に出して下さった。どちらも貴重本扱だからと、洗濯された真白な手袋を差出され、手袋をはめて閲覧して下さいには恐縮することしきりだった。

 平八郎自筆のメモとも断簡ともとれる紙片を眺めている私はただただ感激一入。袋状の表紙には『大塩後素先生手澤題簽集』と書かれてあった。そのなかには「陸象山先生集四帖十六冊」「欽定三禮義疎」「二十一史文選」などと書かれた紙片多数のほかに「皇朝経世文編・書入切抜入・大小十二枚」の包紙のなかにも、紙片がはいっていた。この題簽集が玄武洞文庫の一員なのかどうかは聞き洩らした。

 島野氏から、かつて中之島図書館には、大塩平八郎旧蔵・手沢・書入の古典籍などが何冊かあるという話を聞いた。その時、いつも島野氏は、平八郎の檄文や洗心洞箚記の当時の版木も、いつかかならず出てくる。それを自分の手で捜し出したいと目を輝かせていた姿は忘れられない。

 中之島図書館だけでなく、大阪市立中央図書館にも、大塩の乱や大塩平八郎関係の図書が「宝の山」ほどある。玄武洞文庫は、幸いにも分類整理されているから、大塩研究家にとっては好個の資料だと思う。


参考
洗心洞通信 25」(1992.3)  ◇尊延寺の田結荘千里の書画、
『玄武洞文庫目録(追加寄贈) 付資料集』大阪府立中之島図書館 1996
  1996年 田結荘哲治氏寄贈資料の目録、大塩関係あり。

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 東北本線を北上して上野駅から約一時間、古河駅に着く。利根川上流埼玉との県境で渡良瀬川として分流し、群馬、栃木と接して又思川支流となる左岸に開けた狭隘地である。

 巡回コースは十月二日は午後、正定寺〜万福寺〜雀神社〜永井寺〜頼政神社〜武蔵屋泊。夜、大阪平野郷、大塩会、古河郷土史研究会の皆様との交流懇親会の初頭に酒井先生の講義を受け、先生の新しい切り口で鋭い論鋒を振るい続ける珍力点に参加者一同は耳目をそばだてて傾聴していた。

 十月三日 野木神社〜渡良瀬遊水池〜古川総合公園〜鮭延寺〜昼食、午後古河歴史博物館〜泉石記念館〜古河文学館〜古河駅

(一)訪問の経緯

 本年の散策会は大阪平野郷を巡回した。平野郷は宝永七、幕府領、正徳三、下総古河本多氏領、宝暦九年大阪城代役地、同一三年古河藩土井領として飛地になる。寛政九年、一七五石余高であった。平野郷と古河藩は最近相互訪問されていて、今回ちょうど古河へ巡回されるチャンスに大塩会も便乗させていただく栄誉に恵まれたのである。

(二)巡回

 参加者は二十余名の半数は古河郷土史研究会の会員で、それぞれ研究持分を堪能されるのには感服した。未開地を表す空閑、万葉には許我と記している。古河藩は江戸期の慶長七年、上野、白井から松平(戸田)康長が二万石で立藩、爾来小笠原、松平(奥平)、永井直勝、土井利勝、一六万石余で順次入封、奇しくも今年NHKに大河ドラマ、葵三代で土井利勝が映像化されていた。

 詳細については大塩事件研究会誌に掲載します。

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 小松重男氏の『御庭番秘聞』(新潮文庫)を読み終わったあと、同氏の『幕末遠国奉行の日記−御庭番川村修就の生涯』(中公新書 一九八九年)も合わせて読みたいと思った。しかし、同書はすでに絶版になっており、図書館にいけばすぐ読めるのだが、入手してから読もうと考え、古本屋や古書展で捜していたところ、昨年暮れにやっと手にすることができた。

 川村修就は御庭番家筋の旗本で、幕末期その能力を買われ、初代新潟奉行、堺奉行、大坂西町奉行、長崎奉行、大坂町奉行を歴任した人物である。彼は、その間公私にわたる膨大な日記を残している。この本で大塩の乱が起こった天保八年の記事が紹介されているので、ここに抜き出してみる。  

 二十三日に大塩の乱について聞いたとあるが、どのようにしてこの情報をキャッチしたのか知りたいところだが、川村修就の日記の原本は、曽孫川村清衛氏が新潟市郷土資料館に寄贈されているので、機会があればどのように記述されているのか、みてみたいものだ。


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