Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.7.8訂正
2001.5.31

玄関へ

会報一覧


『大塩の乱関係資料を読む会会報 第48号』


2001.5.28

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇


      目   次

第140回例会報告
「塩逆述 巻七 下」
(14)伝奏衆之廻文
  ・江戸幕府の朝廷支配
   【武家伝奏】
   【議奏】
   【輪王寺】
(15)所司代 二条在番大御番頭へ達書
(16)御城内御番申送帳抄
  ・大坂番衆組頭八名

○「の文字の読み方について」
○旧刊情報 『想古録 1、2−』山田三川
      『御書物同心日記』出久根達郎
○「猪飼野を訪ねる」(再録)6月3日

第140回例会報告

  第140回例会(『塩逆述』からは第73回)は四月二三日に開催、巻七(下)の十八丁から二十六丁まで読み進んだ。参加者は、一九人で、そのうち四人の新たな参加があった。

(14)伝奏衆之廻文

 この史料は、大塩一党が京都へ逃げて来るかもしれないので、松平京都所司代配下の与力・同心に築地内の夜回りを申し付けた。怪しい者を見つけたら、摂家方・宮方・堂上方の御家来衆でも吟味をすると、武辺から申し入れが議奏中からあった、という内容である。この文が伝奏衆からの廻文として、公家衆に伝えられたのであろう。

 ○江戸幕府の朝廷支配

 江戸時代、幕府による朝廷統制の機能は、京都所司代・京都町奉行・禁裏付などの幕府から派遣される武力を備えた武家たちが、朝廷を包囲するほかに、朝廷内部に、摂家から選ばれる関白(摂政)と三大臣に、その他の公家から選ばれる武家伝奏(2人)・議奏(4〜5人)のラインが機能していた。

 ところで、武家伝奏と議奏の関係は、もともと摂関が総括し、その下で幕府の意向を強く受けた武家伝奏が実務にあたっていたが、職掌が広範囲に及び、毎年年頭勅使として両名が共に江戸へ下向することから、後水尾法皇は、議奏にも監督の任を与えることにした。つまり、寛文12年(1672)から、議奏が武家伝奏の代役を勤めはじめ、貞享3年(1686)には、正式に事務の引き継ぎをうけるようになった。こうして、摂関・武家伝奏・議奏による朝廷支配の体制が確立したのである。

【武家伝奏】朝廷と幕府間の意思疎通をはかるために置かれた公家の役職。(中略) 江戸時代を通して定員2名。役料は500俵、多くは大納言の中から、学問・文筆の才があり、弁舌がすぐれ正義を行う者が選任された。年頭賀をはじめ朝廷の慶弔に対し将軍が差遣する上使に関すること、その答礼として、または将軍家の慶弔に対する勅使として江戸に下向することなどをはじめ、公武折衝のいっさいに関与したのみならず、天皇・摂関と、堂上・地下・寺社との中間にあって、下意を上達し上意を下達するなど、公家社会の中枢に位置した。議奏と併称して〈両役〉といわれ、関白に次ぐ重職とされた。

【議奏】議奏はつねに天皇に近侍して上奏を取り次ぎ、また勅宣を受けてこれを伝える役職で、しかるべき家柄の公卿の中から4、5人が任じられた。

【輪王寺】栃木県日光市にある天台宗の寺。1654(承応3)後水尾天皇の皇子守澄新王が江戸寛永寺とともに、当山を兼帯、55年(明暦1)輪王寺宮の号を賜り、門跡寺院として延暦寺や寛永寺と並ぶ天台宗の有力三カ寺の一つになった。56年、比叡、日光、東叡3山をもって天台一宗総本寺とした。

(15)所司代 二条在番大御番頭へ達書

 大坂城代土井大炊守から京都所所司代へ、大塩一党が京都へ逃げて来たら、召し捕るよう申してきたので、その旨二条在番へ達せられた。

(16)御城内御番申送帳抄

 これは、「御城内御番申送帳抄」とあり、御番所での勤務日誌の体裁で、貴重な資料である。大坂在番の大塩の乱の際の警備状況を垣間見ることができる。ここでは、いちいちその内容を追っていかないが、どの組の誰が御番所に詰めたか、名前だけ記しておく。ただ、ここでは北条遠江守組組頭の四名に属する氏名だけ挙がっていて、もう一方の菅沼織部正配下の組については、名前も含め動向が出てこない。注にあるように御番所が二か所あるとすれば、一方だけというのは納得できる。

 なお、文中にあった「」については、満藤さんが調査されたので、参考にしてほしい。また、「塩逆述」巻四に収録されている「横山良助ノ書」の横山良助とは、入戸野九左衛門組のものであったことがわかった。

○大坂番衆組頭八名

 枚方で一緒に古文書を読んでいるメンバーで、最近大塩の乱関係資料を読む会にも参加されている大浜さんから、枚方宿の史料に関連する飛脚関係の資料集を見ていたら、先に塩逆述に出ていた大番の組頭の氏名が載っている資料が収録されていると教えていただいた。それは、『近世交通史料集−飛脚関係』第7巻の「御番衆定飛脚濫濫觴」という史料群の中にあって、天保八年の日付のある「差上申一札之事」で、その資料の宛所から、当年の大坂番衆組頭八名が判明する。差し出し人は、大坂・天満屋弥左衛門で、「菅沼織部正様組御組御番衆様方御在番中、御定飛脚御用之儀、当従申年八月来ル八月迄、御請負之儀奉願候処、格別之以御賢慮私江被仰付、冥加至極重〃難有仕合奉存候」と、まず認めている。そして、「於江戸表御定便飛脚相仕京屋弥兵衛申合、私同様相心得罷在、御請負申上候間」と、江戸の請負業者を京屋弥兵衛と定めている。そして、今でいう請負内容を記しているが、それは割愛して、最後に右の4名の組頭を宛所としている。

また、「右同文言ニ而」として、北条遠江守の組頭、4名の名が記されている。

 この組分けは、史料集の注記より、大番任命の時から固定している。また、資料集には「御番衆御組頭様より東海道宿〃江先触」を出している。先触の宿は、枚方宿から品川までの56宿(守口宿は除く)である。上記八名は大番の定飛脚であることを証明するため、記名捺印した書類を飛脚宰領に持たせ、東海道56宿に予め交付している印鑑票と照合確認させている。したがって大坂での任務を終えて、江戸に帰るときは、この印鑑票を回収していったはずである。ただ、回収を忘れたのか、枚方宿には、弘化四年(1847)「判鑑」が残っている。


 の文字が、『塩逆述』巻之四、「横山良助ノ書」二七丁〜二八丁の文中に出て来た。その一部を拾ってみると、

 読む会は、平成九年五月二十六日であった。=側であり、相(あいかわ)と読み、この場合は、相手側の意であると、向江先生の説明を思い出す。

 の文字は、字典、字源を求めても出て来ない。  其の後の、平成十一年七月中旬、直木賞を受賞した桐野夏生氏の『柔らかな』(講談社)が発表になった。頬(ほほ)と仮名が打ってあった。  二週間後の八月二日(朝日総合(3)十四版)に此の本の広告が出た。『柔らかな』やはらかなほほ23万部突破 桐野夏生とあった。

 八月二日新聞社に質問した。片や広告主が此の文字を使っていた。片や記事の方は其の時の発表の文書で、記者がそう書いたのであろう。その記者は留守勝ちなので、確認は困難だと。全く答えにならん。暫くして、『新明解漢和字典』(三省堂第四版1991.2.10)に記載されていると云う返事だった。

 以上の字典には、異体字、俗字と云う解が多かった。

 直接=側と記すされたものは見当たらなかった。

 再度、向江先生に教えを乞うたところ、先生から送られた『俚言集覧』(名著刊行会)の一部に

と記されていた。



●旧刊情報●

・『想古録 1、2 −近世人物逸話集−』山田三川著 小出昌洋編 (東洋文庫) 平凡社 1998
 「東京日々新聞」連載のもの。大塩も含めて、大塩の乱に関わる人物の逸話が収録されている。一部表題のみ抜書きします。

・『御書物同心日記』出久根達郎著 講談社 1999

 書物奉行配下の同心を主人公にした小説。紅葉山文庫に勤務する日常生活がどれほど史実に基づくものか、古書店主である著者の本に対する思い入れもはいって、『塩逆述』を写した元書物奉行・鈴木白藤の行為を想像させるものがある。



Copyright by 大塩の乱関係資料を読む会 reserved
会報47号/会報49号/会報一覧

玄関へ