発行人 向江強/編集 和田義久
◇禁転載◇
目 次 第141回例会報告 「塩逆述 巻七 下」 (17)土井大炊頭殿書取 (18)永井飛騨守御届 (19)大御番八番組北条遠江守組某其子へ与力書 ○「猪飼野を訪ねて」 ○「「猪飼野を訪ねる」の後日物語」 ○新刊案内 「近世後期大坂本屋仲間における別家衆の動向」坂本宗子 『キリスト教と日本人』井上章一著 「大阪の蔵屋敷と堂島米市場」宮本又郎 『曾祖父・大塩平八郎』小西利子著 ○真山一郎の浪曲「大塩平八郎」
第141回例会(『塩逆述』からは第74回)は五月二八日に開催、巻七(下)の二四丁から二九丁まで読み進んだ。参加者は、一六人であった。
(17)土井大炊頭殿書取
「大坂在番浅香伝四郎より留守へ申来」との副題がある。大塩父子が油掛町に潜伏していることが幕吏の知るところとなり、大坂城代と西町奉行所が召し捕りにいったが、両人が自尽して焼死した。その旨の回状である。また、大井正一郎が捕まった。河合郷右衛門は正月に出奔し、人相書に出ているが、この度の一件とは関係なし、と大塩父子と大井正一郎さえ召し捕らえば、あとは召し捕りないし自殺したので、済んだも同然との判断がしめされている。
さらに、大塩父子の召し捕りの様子の風聞書が収録されている。
(18)永井飛騨守御届
この資料は、高槻藩が出陣したときの様子を届けたもので、総人数は三一 〇人となっている。この内訳について、質問があったので、調べてみた。 延享2年「高槻御家中名寄」によれば、侍足軽合わせて三五六人であり、そのうち六六%−二三五人が足軽級である。平士級が数十人あり、比較的安定した構成を示している(表参照 略)。(中部よし子「畿内における譜代大名領近世城下町の形成と展開―城下町高槻の場合―」『近世都市の成立と構造』)
延享2年は一七四五年で、天保八年が一八三七年で、ほぼ一〇〇年の隔たりはあるが、高槻永井藩の石数に大幅な変化がないので、家臣団の階層と知行高・人数は基本的に変わってないと考えてもよいだろう。
(19)大御番八番組北条遠江守組某其子へ与力書
最初の一ページを読み進んだところで、時間切れ、次回に持ち越す。
猪飼野を訪ねて | 和田義久 |
去る六月三日、大塩事件研究会主催の「猪飼野を訪ねる」に参加したので、その参加記を記す。
まず、猪飼野は、大塩事件で連座した木村司馬之助の村で、ここのフィールドワークとして、鶴橋駅―木村司馬之助建立道標―御幸森天神宮・木村権右衛門建立の鳥居・灯籠ー安泉寺―つるのはし史跡公園ー木村権右衛門邸跡―猪飼野保存会館(現地講演会)―鶴橋斎場・木村司馬之助、木村権右衛門建立の墓を地元郷土史家の足代権二郎氏に案内してもらった。
また、酒井一先生や荒木伝さんの講演内容は、『大塩研究』に掲載される予定なので、ここでは、大塩事件に関係する木村司馬之助についてのみ述べる。
司馬之助の史料は、『大塩平八郎一件書留』と『東成郡誌』の記述ぐらいで、まとまった研究はないのが現状。「一件書留」からあらましを拾い出すと、以下のとおりである。これは、酒井先生のレジメから借用する。
分家としての司馬之助家
天保2年(一八二八)の墓碑「釋浄圓」(鶴橋霊園) 大塩門人 司馬之助「一件書留」 文政11年 門人 天保8年2月14日 平八郎に面談、施行札を配布 2月18日 夕方大塩邸へ行き宿泊、血判に署名 2月19日 騒動の混乱に紛れ逃去、逮捕 3月7日 大坂牢舎溜預 5月18日 病死、塩詰の死体溜預 9年9月18日 塩詰の死体引廻し、大坂にて磔幸田成友は、「本家権右衛門の倅熊次郎入門につれ、文政一一年頃より大塩邸に出入りしていた」と記している。
『大塩平八郎一件書留』から
吟味伺書 猪飼野村 百姓 司哥之助親 酉三月七日於大坂牢舎格溜預 司馬之助 同五月十八日病死、塩詰之死骸溜預 一 司馬之助は去ル子年中、前書大塩平八郎知ル人ニ相成 追々懇 意ニいたし候処、去酉二月十四日同人方江罷越 面会およひ候節、 平八郎より差出候施行金請取、村内 其外難渋人共江渡遣候儀 等は前書孝右衛門等同等申之、其後平八郎江面会之砌、(中略)、 同志之儀申勧誓書差出候間、一覧いたし候処、右文段聢とは不覚 候得共、天下之一大事ニ付味方同士助合、諸事平八郎差図之通可 相守趣認有之、無道之企とは不存、百姓共為筋ニ相成候儀と心得、 承知之旨相答自筆ニ而名前を認血判いたし差出候処、(中略)、 同十八日施行之儀ニ付談之筋有之候由を以、同人方 呼ニ参り同 日暮方罷越候処、(中略)、 一 同酒宴を催、施行之儀は追而緩々可申談旨平八郎申聞、同人方ニ 止宿中、翌十九日朝瀬田済之助遽敷駈来、夫平八郎儀裏切之もの有 之候間、銘々用意可致旨高声ニ申罵、扨は異変差発候儀と相察、就 而は一旦右躰誓書血判をもいたし候儀ニ付、後難怖敷相成、一同騒 立候混雑ニ紛れ逃去候後、平八郎不容易企之次第承り案外ニ存罷在 候処、被召捕候義之旨申立候 親族名前書 養父権九郎 実父河州西野新田専助死 池田岩之丞当分御預所 摂州東成郡猪飼野村 百姓 司哥之助親 司馬之助 右司馬之助続合 司馬之助養父権九郎死娘 一 女房 さい 戌三拾七歳 一 悴 司哥之助 戌拾弐歳 養方 司馬之助養父権九郎死弟 一 叔父 松平伊豆守領分摂州 東成郡中川村百姓 善兵衛 戌六拾壱歳 右善兵衛悴 一 従弟 仙太郎 戌拾弐歳 実方 司馬之助実父専助死悴 一 兄 水野六之助知行河州 丹南郡西野新田百姓 専次 戌四拾九歳 右専次娘 一 姪 小ミち 戌弐拾七歳 右同人娘 一 姪 小とみ 戌弐拾五歳 右同人娘 一 姪 小柳 戌弐拾九歳 (朱書) 「先而大坂町奉行差上候続合書ニ養母しか、甥駒三郎と認有之候 は、司馬之助儀、権九郎方江養子ニ相成候以前、一旦養父ニいた し候猪飼野村百姓権右衛門女房并同人悴熊三郎死悴ニ付、養子ニ 参り又外江養子ニ成候もの、最初之養方親類父母とも服忌無之も のニ付、糺之上相除申候」『東成郡誌』
釋浄円 天保二辛卯年季春 木村司馬輔光房建 尚、清水村人物橋本忠兵衛條参照すべし。 (『東成郡誌』大正一一年)
「猪飼野を訪ねる」の後日物語 ―司馬之助の墓、二日後取壊― |
井形正寿 |
六月三日は大盛会
六月三日の「猪飼野を訪ねる」現地見学と講演会には、遠くは鹿児島市から木村権右衛門のご子孫が駆けつけられるなど、総計八五名の参加があって大盛会だった。
当日は、大塩平八郎とかかわりのあった木村権右衛門、木村司馬之助の子孫などの方の参加があったので記しておこう。
【略】
現地での関係史跡のガイドは、生野区古道を歩く会を主宰されている足代健二郎氏が精力的にやって下さったのには頭がさがる。 当日、猪飼野保存会館で本会々長酒井一氏、郷土史家荒木伝氏の講演会終了後、希望者だけで鶴橋斎場を見学した。斎場一角の無縁墓地に木村権右衛門・木村司馬之助の両人が建てた墓が一基ずつあった。四月三日、五月三日と二回、下見したがその時と少し様子が違っていた。ピラミッド型の墓地群の東側にあった塀がない。なにか異状であり、墓全体が動かされているような気がした。この二日後の六月五日に大変なことが起こった。
トラックに放りこまれた墓石
六月五日朝十時ごろ、足代さんから突然電話がかかってきた。最初、なんの話か理解できなかった。「車で鶴橋斎場を通りかかったら、無縁墓地の東側の入口にトラック二台が止まっており、墓石を積んでいる。権右衛門の墓も、司馬之助の墓もトラックに運びこまれている」との急報。
足代さんが作業員に中止を求めたが、聞きいれてもらえないので、関係者に連絡をとっており、後ほどまた、電話をいれるといって切れた。夕方、足代さんから電話が再びあった。墓地の地主さん、生野区役所、市環境事業局斎園係、地元の安泉寺住職が集まってきたので再び中止の申入れをしたが、聞きいれてもらえなかったという。
この無縁墓の一群は兵庫県津名郡津名町大町畑の無縁墓処理業者が引取ったので、その処理場まで行ってくれれば話し合いに応ずるとのことにつき、足代さんは止むを得ず搬出を了解された。 当日は朝から雨が降っていたため、墓石搬出作業が難行し、関係者は法律的に問題はないとの見解であり、作業員は早く帰社したいというので、足代さんはどうにも仕方がなかったという。
寝耳に水の背景
鶴橋斎場は大正四年に私設として創設され、二代目斎場主吉川忠常氏によって斎場は運営されていたが、昨年辞任されている。現在までの経緯はよくわからないが、市設鶴橋斎場といっており、斎場管理委員会によって管理されているようである。斎場内に昨年二月一日付で以上の趣旨の市公告がされている。
その上、無縁墓の地主と吉川元斎場主との間でトラブルがあったため撤去・搬出となったのがことの真相のようだ。地元の事情にうとい大塩事件研究会の会員及び当日の参加者にとっては寝耳に水の大事件発生である。淡路島津名町への搬出にはただただ驚愕した。
酒井会長も墓地跡だけでも、もう一度訪れてどうなっているか確認したいといわれた。足代さんからはその後のこともいろいろ調べて下さった。市環境事業局斎園係の見解は鶴橋斎場墓地外の無縁墓の処分だから法的に問題はないといい、文化財的な墓があることを知っていたならば、なんとか考慮すべきであったかも知れない、ということだった。
夏蜜柑の樹だけが知っている
六月三日墓地で、木村司馬之助建立の墓を最後まで展墓されていた司哥之助の子孫、Sさん・Nさんの姉妹にどのように報告すべきかと思い悩んでいた時、Nさんからタイミングよく電話がかかってきた。霊感に打たれたように「あの時あった司馬之助の建てた墓がなくなった」といったら、大変驚かれた。
十日の午後、鶴橋斎場の無縁墓地跡に酒井会長、足代さん、Nさん、政野敦子さん、私の五人が集まって跡地確認をした。そこでもう一度驚いたのは、別の墓地から運ばれてきたと思われる新墓を含めた墓石が撒き散らされている。Nさん、政野さんはこの新たな墓石の下に権右衛門、司馬之助の剥落した墓石破片でもないかと、手袋もはめず素手で墓石を動かしていた。「士」とか「妙」と読みとれる破片を見つけられた。傍に夏蜜柑の樹が実をつけ、地上に数個散乱していた。
ほんとうに「はかない」ものだろうか
翌十一日、Nさんから再び電話があった。三日に見た墓が十日には完全に人間の視野から消えているのだからショックだったようだ。それでも、十一日の朝から安泉寺さんに電話をいれて先祖供養のことについて教えを請うたとのこと。このあと芦屋の木村権右衛門家の本家に電話をいれたところ、当主のお母さまが出られて本家では司馬之助も祀っていますよと、意外のことを告げられたという。その上、本家代々の墓も近くに移してあるので、参詣に来て欲しいといわれたと喜んでいられた。屋久島から来阪二十余年の姉妹は近く本家を訪ねるという。六月三日の本会行事「猪飼野を訪ねる」に参加された姉妹のお二人は、こんどもまた、敬虔な気持で本家の仏壇に掌を合されることだろう。本家と新しい交流のはじまることを密かにに祈らずにはいられない。
墓ほどはかないものはないということわざがある。これはなにを意味するのだろうか。これは今回のように無縁墓になって放棄処分にせられるようなことを指してハカナイというのではなかろうか。六月三日に参加者だけで、お墓に最後のささやかなお別れをしたと思えば、これで区切りがつく。しかし、われわれの「大塩研究」だけは「はかない」ものにしたくない。
●真山一郎の浪曲「大塩平八郎」●
聴いてみたい方は、一瀬さんまで、お申し出ください。