Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.27

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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第47号』


2001.4.23

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇


      目   次

第139回例会報告
「塩逆述 巻七 下」
【補足】
(4)山城守家来高橋勝右衛門答平山名助書
(9)福岡家来太田兵三郎御届
(10)芸州家来中野富三郎御届
(11)雲州家来比良左衛門御届
(12)神峯山寺書上
(13)朝報抄

○「宇田川文海と大塩の乱」(会報37)補足
○新刊情報 『三浦田中家文書 −宇和海浦方史料− 第1巻』
      『ドラマの森 2000』西日本劇作家の会編
       『大阪人物辞典』三善貞司編
      『人間の剣 江戸編』森村誠一著
      『夜明け前の殺人 −安政南山一揆の顛末−』大槻武治著
○「猪飼野を訪ねる」6月3日

第139回例会報告

 第139回例会(『塩逆述』からは第71回)は三月二六日に開催、巻七(下)の十三丁から十八丁まで読み進んだ。参加者は、一二人であった。

 前回読んだところを、調査していただいた結果も踏まえて補足する。(今後も、いろいろな疑問点を、それぞれの方が調べていただいて、報告していただければ幸いです。)また、会報への原稿もお寄せください。

(4)山城守家来高橋勝右衛門答平山名助書【補足】

 「堤半左衛門」「同半十郎」について「咬菜秘記」にでている「榎半左衛門」「同半十郎」ではないか、というご指摘があった。岡本本の279pに「御城代手にて召捕 榎半左衛門」「同半十郎」と記載されているので同じ人物だと思われる。相蘇一弘氏の「大塩の乱関係者一覧とその考察」 には両者ともでていない。しかし、徒党の名前を書き上げた史料をいくつか見直してみると、「堤半左衛門」「同半十郎」の出ているものがいくつかあった。

 「城代の手に捕らえられた」という人物でここに洩れているのは、「柏岡伝七」で「柏岡源右衛門」とともに併記されて「同伝七」とあることが多い。「茨田郡次」は「藤田」(『甲子夜話』)「荻田」(同)「蒔田」(『浪華騒擾紀事』)と誤記される場合が多い。「柏岡」は「梶岡」(『甲子夜話』巻之四十一2項ほか)と誤記されているものもあるが、主要人物としてほとんどの史料にでている。

 『甲子夜話』巻之四十一2項には「梶岡」「柏岡」はあるが「堤」はない。『浪華騒擾紀事』の最後の徒党の名前書き上げは、「梶岡」「柏岡」はないが、「榎半左衛門」「同半十郎」は記載されている。

 因みに、『商業資料』(明治二六年)掲載の「大塩平八郎挙兵の顛末 其二」の陣立図には、「柏岡源右衛門」「柏岡伝七」とともに、「堤半左衛門」「堤半十郎」も記載されている(この文献は名前の誤記が多い、出典不明)。

 『浮世の有様』巻七に連判の名前があがっていて、この中に「浪人堤半左衛門」「浪人堤半十郎」が挙がっている(巻七の八 三一版p463)。

 『編年百姓一揆史料集成 第14巻』(三一書房)の「華陽異聞」、黒正文庫蔵史料、『藤岡屋日記 第2巻』にも浪人として出ている。黒正文庫蔵史料では「京ニテ捕」となっている。

 見た限りでは「榎」より「堤」の方が多いが、高槻浪人とされる梅田源右衛門にしてもどういう経緯で連判に加わったのか、出石の浪人が加担したという噂があったので、ひょっとしたら関係あるかもしれない。一旦は捕縛されたものの、関わりがないとしてすぐに解放されたのか、処罰の対象にもれているのはなぜだろうか。

 名前の誤記がそのまま引き継がれる場合も多いが、いくつかの史料に出てくるので、今後も「堤」「榎」に注意しておきたい。

(9)福岡家来太田兵三郎御届

 前回の「(8)酒井雅楽頭御届」に続き、以下出動の届けが三つ続く。いずれも数字としての人数はでていない。

 いずれも、幕府関係者あての届けと思われる。  筑前福岡藩は四七万石。藩主は松平(黒田)美濃守長溥(ながひろ)、薩摩の島津重豪の九子。大坂蔵屋敷は中之島白子島町などにあり、蔵元は鴻池。「同心屋敷」というものが福岡藩独自のものであったか要調査。

 城代土井の指図で人数を差し出したが、「非常之手当筋ニ指遣置候義ニも無御座候ニ付」、鉄砲などの拝借を願い出たが、まず鑓を持って出るようにということで、奉行所で鉄砲を支給されている。指揮をとったのは南部七郎右衛門。二十日夜は天満南詰を固めた。二八日には奉行所で、引き払うようにという指図で戻る途中、使者から、逆賊が近くにいるので引き返せ、といわれたので、一旦屋敷に戻って甲冑を帯び、昼過ぎまで詰めた。三月六日付。太田兵三郎は「城使」かとも思われるが、「武鑑」には記載されていないとのこと。

(10)芸州家来中野富三郎御届

 安芸広島藩は四二万石。藩主は松平(浅野)安芸守斉粛(なりたか)。大坂蔵屋敷は中之島、蔵元は鴻池。

 こちらは跡部より使者があったということだが、次の(11)も「城代の指図」を受けてということかもしれない。各藩の武力を動かす権限は城代にあるのではないか。

 二十日夜、伴直三郎が指揮をとって、東町奉行所に行って鉄砲などの支給を受け、京橋口の「松之下」に詰めた。翌朝、引き取るように指図があった。三月十一日付。中野富三郎は「武鑑」には「御城使」のひとりとして名が記載されているとのこと。

(11)雲州家来比良左衛門御届

 出雲松江藩は、十八万石。藩主は松平出羽守斉斎(なりより)。大坂蔵屋敷は、土佐堀白子裏町、蔵元は天王寺屋五兵衛。

 これは二十二日、跡部の用人から、首謀者がまだ捕まらないので、奉行所役宅を固めるようにという依頼があった。指揮は大野丹助、甲冑の上に火事羽織を着用して奉行所に行ったが、「奉行所之後北手籾蔵之処手薄」なのでそちらを固めたが、酒井雅楽守家中が固めるので、後手の「馬場並庭先」の方に回った、与力の差図である。翌朝には、「際限も無之義ニ付」もう引き取ってよいといわれている。ただし、首謀者が捕まっていないので、また出張ってもらうかもしれないとのこと。三月十四日付届。本文では「比良半左衛門」になっているが、こちらが正しいようだ。

「武鑑」には「御城使」のひとりとして名が記載されているとのこと。

 以上三件は、蔵屋敷の者が出動を指図されたものだが、いずれの藩も、「非常之手当之筋ニも無御座候」、ということで奉行所で鉄砲を支給されている。これは太平の世で備えがなかったのか、それとも、鉄砲を蔵屋敷に置くことは禁じられていたのか、どちらだろうか。

 (巻三の最後の「松浦肥前守ノ書状」は日付がないが、やはり要請があって出動した旨の届けである。)

 また、出動の指図も、藩によって日がまちまちである。

 「巻七中(8)松浦肥前守蔵屋敷よりノ書」(会報43参照) の留守居の知らせによると、平戸藩では十九日夜から詰めているし、「前例無之候得共」と前例がないが非常事態で出動したことを示している。また、平戸藩の同様の届けが『甲子夜話』巻四十6項にでている。また各藩蔵屋敷の「上達書」もいろいろ収録されている。巻之四十三5項には「町奉行ヨリ諸侯家へ加勢ノ要請アリシ時武具ノ備ヘアリシ加藤松浦両家ノミ速ニ人数差向ケシ事」が書かれている。加藤は大洲藩。

 『浮世の有様 巻之六』には次のような文がある。

(12)神峯山寺書上

 「カブセンジ」とルビが振ってあるが角川の地名辞典では「カブザンジ」。現在は高槻市にあり、天台宗、根本山宝塔院と号す。「カブサンジ」と言いなれているがどちらが正しいか、ヨミも変化する。ここに逃げ込んだという風聞があったので、執行(しぎょう・寺の事務をする人)代などが追々届けるというものである。「分限留」を添えている。

(13)朝報抄

 二十二日付のこの急飛脚文書は、比較的遅い時期のものなので、書き手の関係者からのものかもしれない。江戸への乱発生情報は、いろんなルートがある。また、老中の水野越前守だけ「殿」がついているのは、家格の高い「高家」の記録とも思える。「朝報」というのは、朝臣接待などの仕事がらを推察させるものがある。二十八日の「御対顔」は『徳川実記』にある二十七日の「御対面」のことか。日時の違いが疑問として残る。また、御同朋頭(ごどうぼうがしら) は、大名役人の文書を取り次ぐ役なので、口頭で伝えて、三月一日付の「(8)酒井雅楽頭御届」が出されたのかもしれない。

 会報第1号「巻四(2)大坂騒動始而申来節留」が関連で思い出されたので、一部再録する。会報2号にも関連のものがあるので一部再録する。

●「会報第1号」より●

 大塩の乱を伝える19日付の飛脚が幕府に着くのが、一週間後の26日である。『続徳川実記』の「文恭院殿御実記巻二十二」(史料2)を調べると、26日の条には一言も大塩の乱について記述されていなかった。

 次に「廿七日公家衆御対談二付都而登城有之」の一節にも疑問が出された。先の『続徳川実記』には、「天保2月25日公卿参着、27日勅使徳大寺大納言日野前大納言・院使藤谷宰相御対面」とあり、恒例の歳首祝いの勅使と思われる。公家衆は25日に江戸に着き、26日に将軍家斉と対面、28日猿楽を供応され、3月1日御返詞をもらい下城している。

●「会報第2号」より●

御同朋頭という役職は、幕閣より伝達する公文書、または諸大名諸役人から上申する書類を掌る役で、配下に御同朋、奥坊主、表坊主がいた。定員は4名で、『塩逆述』の記録の主かもしれないと推察されている。大胆な仮説当否の判断はつきかねるが、この「大坂騒動始而申来書留」に関するかぎり推察は当たっているような気がする。
    (和田氏欠席のためNがまとめました。)


「宇田川文海と大塩の乱」(会報37)補足    (N)

 最新の『大塩研究43号』に久保氏の復刻で、「毛谷村かねの履歴」がでていました。これは宇田川文海の読み物『浪華異聞 大潮余談(しおのなごり)』と同じものです。(文海の読み物には『・・・の履歴』というものが別にもあります。)

 京都の駸々堂の『絵入人情 美也子新誌』に明治15年4月創刊号から連載された『浪華異聞 大潮余談』は、結果的に見ると、『魁新聞』(文海は魁新聞の中心人物でした。)に前年14年3月から掲載されたものをタイトルを変えて再掲載ということになったようです。『魁新聞』が休刊しているので、最後まで掲載されなかった可能性も考えられます。今後の久保氏の調査に待ちたいと思います。新聞の三回分が、『美也子新誌』の第一回となっていますから、『浪華異聞・大潮余談』(和泉書院)につけられている回次と同じであること、タイトルが『大潮余談』になっていることから、やはり、佐殿家蔵のものは、『美也子新誌』または、その原稿をもとにした可能性が高いと思われます。

 なお、『近代日本文学叢書 第31巻』を再度確認しましたが、「毛谷村かねの履歴」は、著作年表に掲載されていませんでした。初期のものは無署名のものが多いので、文海の全作品を確認するのはむずかしいでしょう。


新刊情報

・『三浦田中家文書 −宇和海浦方史料− 第1巻』田中家文書調査会編 臨川書店 2001
 「文化〜天保十二年 御書出魁書珍事為覚悟代々記」 三月四日付で、大塩父子ら六人の人相書がでているほか、自滅の触などが記録されている。

・『ドラマの森 2000』西日本劇作家の会編 (西日本戯曲選集第3集) 西日本劇作家の会 2000

 井上満寿夫著「浪華一揆大塩の乱始末」収録。井上氏は「平成の檄文」当選者。
七三年公演脚本の改定版。最後は「終焉の地碑」で幕が下りる。

・『大阪人物辞典』三善貞司編 清文堂出版 2000
 大塩平八郎をはじめ大塩の乱関係者も何人か収録されていて参考になる。ただ、不正確なところも見られるので、注意しながら読む必要がある。

・『人間の剣 江戸編』森村誠一著 中央公論新社 2001
 「両刃の叛乱」。『週刊読売』連載のものが単行本になっている。

・『夜明け前の殺人 −安政南山一揆の顛末−』大槻武治著 東洋出版 2000
 実在かどうか確認できていないが、「伊那の大塩」といわれた松尾亨庵という人物に教えを受けた者が、一揆の中心にいる。白河藩の飛地を支配した代官の子孫が、幕末の動揺期の歴史を探るという小説。



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