Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.24

玄関へ

会報一覧


『大塩の乱関係資料を読む会会報 第50号』


2001.7.30

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇


      目   次
 
第142回例会報告
(19)大御番八番組北条遠江守組某其子へ与力書(承前) 

●石崎東国『大塩平八郎伝』「天保七年」の項より
●「大塩の建言はどういう内容だったか −平戸藩士聞書−」

●新刊案内 『鷹見泉石日記 第一巻』古河歴史博物館編
      『近世国家の教育思想』本山幸彦著
      『河内今昔事典』冨田寅一
      『禁書売り −緒方洪庵・浪華の事件帳−』築山桂

第142回例会報告

 第142回例会(『塩逆述』からは第74回)は六月二五日に開催、巻七(下)の二九丁から三三丁まで読み進んだ。参加者は、一五人であった。

(19)大御番八番組北条遠江守組某其子へ与力書(承前)

 長文なので、今回も読み終わらなかった。

 大坂の町の事情にうとかったであろう大番の者がきいた風聞は、正しい部分と、間違った部分がある。

 町奉行の名前も、大塩の辞職当時は高井山城守である。大久保讃岐守は跡部山城守の前任者で、天保五年から七年にかけて在職、一心寺事件で更迭された。

 前回のところで、「京都へ送るダニ日々穀数定り有て(凡五百石程と云・・・)運送容易ならす、因て其余在々江運送ハ尚厳重なる故・・・」とあって、大坂の町人よりかえって田舎の者が飢えていると書き送っている。この点について、本城正徳『幕藩制社会の展開と米穀市場』(大阪大学出版会 1994)に天保期の堂島出米量がでているが、同じく『米商旧記』をもとにしたと思われる石崎東国の『大塩平八郎伝』の当該箇所を参考に転載する。

 また、この文の書かれた時点では、徒党の名前もかなり正確に把握されているが、「妻を刺殺」というのは、前にも出てきたが、城方の噂としてかなり広まっていたようである。

 高麗橋辺で生け捕ったという「一四五歳計の士壱人(大塩二男也)」は誰かという疑問がでた。年齢的には松本隣太夫が近いが、これは勘助島で捕まっている。

 天守台より見えた「長さ凡十八九町計幅八丁計」の火災は、「東西道法七六五間、南北道法 千十間、町数百十二丁」という記録がある(会報四、二三号参照)。

 城代の「御庭廻り」というのがどういうものか、疑問が残ったが、通常の火事ではしないのに、「出火一通りならざる様子ニ付」急ぎの御庭廻りがあった。

 大番の勤務は、(16)御城内御番申送帳抄を補足するものとして読める。

   (和田氏欠席のためNがまとめました。)


●石崎東国『大塩平八郎伝』(246p〜) 「天保七年」の項より

是年十一月大阪町奉行他所積出ノ制限令ヲ発ス、即チ大阪ヨリ毎日及ビ毎月積取額ヲ定ムルコト左ノ如シ。

按スルニ此ノ他所積米制限ノ事タル新奉行ノ初テ施行セルコトニハ非ス、古来異作等ノ甚ダシキ場合ニ実施シタル例アルコトニシテ是レ大阪在米ノ維持策上止ムヲ得ザルニ出ヅ、然レドモ其制限モ亦自ラ程度アリ、天保四五年ノ制限ハ明ナラズト雖モ亦一説アリ、

天満水滸伝云 京師は常に大阪より積送るべき米穀と、江州路より牛車又は人肩を以て運ぶ米をば、日用に遣ふ仕来りなりし処、今年は近江も不作せしゆゑ、京師へ米を少も送らず、大阪よりして二千石づゝ、日々運送するの外は余分の米を送らざれば、ますます饑饉に及びしに、京都奉行より米屋どもへ、其在米を割渡して凡人別に当て一人前米二合を以て限りとす云々。

前年京都方面ヘノ輸出米ヲ二千石ナリシトセバ今回ノ五百二十石ハ四分一ノ減額ニ当リ、其他ノ地方モ此例ヲ以テ見ルニ是ノ制限ハ非常ナル苛酷ノモノニシテ、在米維持ト云フヨリハ寧ロ収斂ノ法ト云フベク、左レハ京伏見ヲ初メ近郷近在ノ住民ハ日々ノ飯米ニ窮スルニ至リテ、新奉行ノ政令ヲ怨嗟スルノ声日ニ喧シキニ至レリ。尤モ本年ノ米作モ凶歉ノ甚タシキモノニシテ当時ノ記録ニ依ルニ五畿内四分五厘、関東三分五厘、奥羽二歩八厘、西国筋四分見当ニシテ全国ノ平均作柄ハ四分二厘五毛処ニ計算セラレタリ、若夫宝歴(宝暦)安永間ノ平均収穫ヲ二千五百万石ト見レハ正ニ本年ハ千五十七万五千石ノ減少ニシテ千四百四十二万五千石ノ実収トナル勘定ナリ、

斯クノ如クナレハ大阪廻米ノ減少モ止ムヲ得ス、当時大阪ニ於ケル米穀集散高大率二百万石、即チ五畿七道ノ熟田無慮二千五百万石ニシテ其十分ノ一弱ニ当レリ、会沢伯民ノ新論ニ云フ 天明初、大阪商賈記其所糴糶(てきてう)之数、従宝暦癸末、至安永庚子、所載糴糶之数、大約二百万石以内也、而其見在大阪、寡者三四十万石、多者亦不過百万石、云々。

今天保八年正月ノ大阪在米及ビ其標準相場ヲ見ルニ在米高四十万千九俵、市価ハ百五十乃至六十一匁ナリ、四十万俵ハ石高ニシテ少クモ百六十万石ナリ、先ニ宝暦安永年代ノ十年間ニアリテ多キモ百万石、少キハ三四十万石ト称セラレタルモノ、爾来五十余年ヲ経タリト雖モ、此凶年ニ当テ百六十万乃至二百万石ヲ有スルコト是ニ因テ之ヲ見レハ是レ決シテ米ナシト云フベカラザルナリ、 然ルニ大阪奉行ノ必シモ四十万俵ヲ維持セントシテ苛酷ナル制限令ヲ発シタルハ、遂ニ奸商ノ乗シテ米価ヲ騰貴セシムル原因トナリ、飢饉ノ惨状ヲシテ一層甚シカラシメタルヲ免カレズ先生是ヨリ憤慨ス。


  「大塩の建言はどういう内容だったか −平戸藩士聞書−」

 石崎東国『大塩平八郎伝』に収録されている「平戸藩士聞書」が、大塩が奉行に建策したとされる内容に触れているので紹介します(読みやすくするため一部改行しています。HP「大塩の乱資料館」より転載)。

 なお、徳富猪一郎(蘇峰)『近世日本国民史 文政天保時代』でも乱の原因として「平戸藩士聞書」を引用していますが、この石崎本からの転載ではないかと思われます。

 石崎は頭注で、「平戸藩士聞書ハ葉山佐内ノ筆ニ成ルカ、松浦静山公、後年甲子夜話ヲ著ハス、其第三編ニ先生ト一斎トノ交ニ言及スルモノアリ、葉山氏先生ト相知ル時ニ大阪ニ在リ、其能ク事情ニ通スルモノ、恐ラク平戸藩聞書ノ葉山左内ノ手ニ成ルカヲ信ス、葉山氏名ハ高行鎧軒ト号シ詩ヲ以テ鳴ル者ナリ」(読点は原文なし)と筆者は葉山左内ではないかとしている。葉山は乱の当時大坂留守居役で、佐藤一斎に師事したこともあり、「洗心洞箚記」を入手した人でもあります(会報四三号参照)。


●新刊案内●

○『鷹見泉石日記 第一巻』古河歴史博物館編 吉川弘文館 2001
 いよいよ第一巻がでた。収録は文政八年まで。「解題」で、「随一の功績」として大塩の乱が紹介されている。

○『近世国家の教育思想』本山幸彦著 思文閣出版 2001
 「諸藩の天保改革」で、大塩の乱の影響に言及している。

○『河内今昔事典』冨田寅一著 叢文社 2001
 短いが「尊延寺の深尾兄弟と大塩の乱」の項で、深尾才次郎が北陸で若い命を絶ち、大坂に死骸が運ばれたことなどをまとめている。

○『禁書売り −緒方洪庵・浪華の事件帳−』築山桂著 鳥影社 2001
 「禁書売り」「木綿さばき」 で、「頭が固い」蘭学嫌いの人物として大塩平八郎の名がでてくる。


Copyright by 大塩の乱関係資料を読む会 reserved
会報49号/会報51号/会報一覧

玄関へ