発行人 向江強/編集 和田義久
目 次 第29回例会報告 はじめに (13)横山良助ノ書(承前) (14)雅楽頭届二通(一) (15)雅楽頭届二通(二) (16)大平氏ノ書 (17)二条大番ヨリノ書(11)三井等ノ書
はじめに
第29回例会は6月23日に開催、初めての方を含め19人が参加し、28丁から35丁まで進んだ。
また、「大塩平八郎の乱百六十年記念行事」の一環してのイラストマップの作成につき読む会が編集を担当することになった。
(13)横山良助ノ書(承前)
この史料は6丁に及ぶ長文の書簡だったので、5月例会では時間がなく半ばまでしか進めなかった。6月例会は残りを読んだ。
大塩一党が守口宿へ退いたという風聞があるので、地理に詳しい者を天守台に上げ、遠眼鏡で見届けよとの達しがあった。そこで服部又一郎と水嶋十兵衛が出て、天守台に上って見たが、分かりかねたということであった。天保8年当時大坂城には天守閤は無く、ここでいう天守台というのは天守閣の台のことと思われる。
大坂城は大坂の陣で落城したが、江戸幕府が再建に乗り出し、寛永3年(l626)に内部6階、外観5階の矢倉が完成した。しかし、寛文5年(1665)正月、冬の雷が天守閣に落ち、全部焼出した。昭和6年大阪 市が再建するまで、大坂城には天守なしの天守台が本丸中央にあった。
書簡の終わりで、高槻藩飛騨守次男植村帯刀から檄文を借り、書き写したことが知られるが、この書簡では激文の最後の但書のみが転載されている。
幕府は大塩事件の波及を恐れ、檄文の複写を禁じた。篠崎小竹が写したことが奉行所にぱれたことが、『咬菜秘記』に出ていると、向江先生から指摘があった。
なお、檄文は、大阪市立博物館と成正寺に現存するのみで、成正寺に現存するのは石崎東国所蔵のものであったという。
(14)雅楽頭届二通(一)
姫路藩酒井氏(15万石)の届けで、当時江戸にあった雅楽頭へ27日早便での知らせを幕府に届けけたもの。特記すべき事柄は特になかった。
(15)雅楽頭届二通(二)
大坂町奉行跡部山城守より大塩一党の探索依頼に応じ、姫路藩蔵屋敷の者を差し出したので、蔵屋敷が手薄になったので、在所の姫路に人員の送付を命じられた。人相書を渡し、船着場を厳しく取り締まるよう仰せつけられ、Lたとえ人違いでもくるしくないと、22日申越したので、3月l日に月番の松平伯耆へ報告した。
(16)大平氏の書
大平彦三郎が如何なる人物か書面だけではわかりがたいが、大番か加番に組する与力・同心なのだろう。自分は鎧と火事羽織を所持していたので、準備よく役務につけ、2日2夜の勤務でも大丈夫であったと、江戸へ送った書簡と思われる。
(17)二条大番ヨリノ書
二条大番の誰の書か不明だが、興味深い噂が書き留められている。