発行人 向江強/編集 和田義久
目 次 第32回例会報告 はじめに (21)丹波屋儀兵衛ノ書(承前) ○井形正寿「炭屋邸の敷地は三百十四坪」 ○資料・「浮瀬」
はじめに
第32回例会は9月22日に開催、17人が参加し、46丁から51丁まで進んだ。
(21)丹波屋儀兵衛ノ書(承前)
この書は、「淀城下米売場」丹波屋儀兵衛が、大坂の加嶋屋覚兵衛に所用があるため、2月18日夜船にて下坂したところ、翌日起こった大塩の乱にたまたま遭遇した際の見聞録である。本人が実際に見聞きした事柄を書き留めており、町人サイドから見た大塩の乱という意味で貴重な、しかも興味深い史料である。
儀兵衛は、大坂の油屋善助方で朝食を取り、衣服を改め、山城屋次作を訪ねる。そのとき、次作の倅が帰宅して言うには、東町奉行所で何か事件が起こり、本日の西町奉行の順見が延引になった。しかも、出火の際の準備は如何と尋ねられ、鐘の知らせがあれぱ何時でも駆けつけられると返事をした。役所では、何事もないのに、書類の整理など片付けをされており、次作もおかしくおもったらしい。そう思うのも当然で、事態の重大さにその時は気づていなかったようである。
ところが、儀兵衛が安治川での用事で赴くとき、東北辺りに煙りが立っていると承ったが、帰る途中江戸堀4丁目の橋からみると、やはり天満あたりが大火事と見受けられた。昼食の用意をさせていると、下働きのものが「鉄炮を打ちかけ、抜き身の槍・刀を振り回し、一人も火事場に寄せ付けない」と話し、また「一人鉄炮にあたり、水籠に乗せ帰った」など、いろいろ噂している。
親類の方へ立ち寄っても、東辺りは大変で、このあたりも居られないと、片付けている。加嶋屋へ参り、火の見へ上ると、天満屋敷の火勢強く、そのうち北浜今橋あたり燃え移るようにみえ、鴻池のあたりで何かと大きな声が間こえ、また嶋庄の屋根から火煙が立ち上ぼり、火勢が盛んになっている。その間は5、6丁もあり、風もないので、やはり鉄炮にて焼き立てられたらしい。
火の見から下ると、加嶋屋の皆んなは逃げ支度で、自分が居ては気の毒と暇乞いをし、親類の岩八宅へ寄った。家中は逃げ支度もでき、岩八も帰ってきたので、高麗橋筋へ向かった。
向こうより、白旗4、5本押し立て抜き身の槍・長刀振り回し、大筒は車にて引かせ、小筒など打ち、鐙武者の5、6人が刀振りまわし走り来る有様で、その筋は一人も人のない様子がありありと窺える。さてさて恐ろしく、仰天した。儀兵衛は高麗橋あたりでの大塩方の攻撃を目の当りにしていたのである。
(21)丹波屋儀兵衛ノ書(続き)
逃げる人で群れとなり、親類の倅が品物を外蔵に預けに行ってまだ帰って来ないが、行き先を張り紙にして、女子供・老人を10人連れ、南の方へ逃げ退いた。道頓堀あたりでも逃げ支度に大わらわ。
当年は米が高値なので、南の村に行っても米の入手に難儀するかもしれないと気づき、堺屋で3升借りた。混乱の最中での冷静な判断。
寺町は旦那衆が逃げ込んでおり、料亭浮瀬(うかむせ)に行って頼んだところ、快く引き受けてくれ、11人がようやく落ち着くことができた。金持ち衆が浮瀬を避難場所にしていたようだ。
清水の石段から市中を見渡すと、八ツ半ごろ船場の方は下火になり、呉服町は無事のようだ。
浮瀬の男衆からえた情報では、鐙武者と悪者の首二人切取り、鑓の先に差し上げ、火付け人を召し捕るので、火を消しに掛かれと、役人どもが触れ回っていた。また逃げて来た人の話では、7ツ頃には鉄炮の音はしなくなったという。
翌20日朝、船場の方は静からしいので、女どもは残し、岩八と二人で呉服町へ帰った。道筋大家は皆空き家のように片付き、男ぱかりで番に就いていた。家に着くと、親類の伜も無事に帰っていた。覚兵衛さんも無事で、互いの無事を喜びあった。
儀兵衛は、大火の被害状況を人から得た。尼崎の鉄炮組が納屋町のかき六に寄り昼食をとったが、鉄炮をかついだ5、60人が走り込んだので、西の方では騒動になったらしい。また、儀兵衛は、取引先の関係か米屋を一軒一軒尋ねて安否を窺っている。
一 炭屋彦五郎殿焼失 (資料1) 一 米屋清兵衛殿焼失 一 炭屋善五郎殿焼失、同治兵衛宅焼失、 一 米屋安兵衛殿宅無事 一 米屋鉄五郎屋焼失 一 米屋伊三右衛門殿居宅焼失 一 米屋雅七殿焼失 一 米屋喜兵衛殿焼失 一 山城屋次作殿得意町(徳井町?)居宅焼失、豊後町の新築無事 一 米屋惣兵衛殿焼失 一 油屋善助当時居宅焼失、預けていた品がどうなったか気掛かり。 一 河内屋殿・藤八殿居宅焼失その他岩城・三井・日野松・油彦・南境屋・北境屋・鴻善・嶋庄など大筒を打ち込まれた。
また、淡路町2丁目辺で召し捕りになったようで、鎧甲など武具や大筒・火矢類を車に積んで役所に運ぶのを見受けた。また、死骸が二つ、その内一つは首なし。
一、城は御門前の土手に幕を張り、鉄炮・鑓で固め、誠に美々しい。 と、儀兵衛は事こまめに書き留めている。(続く)
昭和四十年代の地籍図では敷地は表間口十四間○三、裏間口十三間九八、奥行二十一間三で二百九十七坪○一となっている。江戸・明治期との十数坪の差は、大正期の都市計画で四間幅の前面道路が拡張され、両側で軒切されて七間道路になった。この軒切で炭彦邸も一間程度後退したから、その分だけ敷地の面積は少なくなり、勘定に合っている。
松平忠明の町割から、三百年の星霜を経ているのに現在も土地の形状があまり変っていないのには驚く。大塩の乱に焼かれて再建された屋敷が、太平洋戦争には焼け残っていた、この歴史的な船場の旧家が火災で焼矢したことは借しい。
屋敷の変遷は当初の炭彦から明治になって朝日新聞の社主上野精一郎邸になり、昭和二十三年に辰野彦一郎邸になった。
さて炭彦邸の絵図を一覧いただきたい。蔵が五つあって、表の一棟は梁行三間半もある大店である。江戸時代は店のことを「見世」と書いているが、その店は十二畳半に続いて十畳、さらに下店四畳に七畳半の店蔵がついている。店に接続した三畳の男衆の部屋などが並んでいる。さらに中庭を抜けると台所があり、十二畳半の部屋は食堂であろうか、仏壇のある八畳の部屋を中心として、この家の主人の私的な部屋がある。北側の奥に七畳、十七畳半、二十八畳の土蔵が三つ、西側中ほどに八畳の土蔵がもう一つある。その隣に茶室があるのも風流だ。