発行人 向江強/編集 和田義久
目 次 第100回例会報告 はじめに (21) 丹波屋儀兵衛ノ書(承前) (22) 大坂代官ヨリ之書 (23) 勢州ヨリ来書 (24) 山本大膳役所ヨリ書 ○「丹波屋儀兵衛ノ書」を読む ○資料・「王守仁」・「大坂町奉行与力屋敷跡の調査から」豆谷浩之
はじめに
第100回例会(『塩逆述』からは第33回)は10月27日に開催、24人が参加した。今回は記念すべき100回目の例会となった。始める前に、向江強先生と井形正寿さんから建碑に関する行事の報告と参加者へのお礼があり、また、ビデオを観て、製作者の島田耕さんから苦心談を聞いた。その後『塩逆述』に移り、51丁から55丁まで読み進んだ。また、読下文(釈文)の作成者である野市勇喜雄さんが今回を最後に例会への出席を見合わせられるという。
(21)丹波屋儀兵衛ノ書(承前)
この書は、長文に及んだため3回に亘って読んだことになった。
21日は朝は大雨だったが、のち晴れてきた。淀から竹助が大坂へやってきたが、尼崎藩が守口を警護し、大坂へ入る人を検分していた。守口の質屋の伜が大塩の弟子で、大塩一党に加勢するとの噂があるので、川口で吟味がある。竹助は外道を回ったが、鉄砲を撃ちながら来て尋ねられた。山崎道(西国街道)は高槻藩が警護していると聞いた。終わりに役所へ書き付けを届けるようにいわれているが、下書きだがお目にかけたと記されている。
町奉行は広く大塩に関わる情報を収集していたと考えられていたが、このように書き上げを提出するよう命じてという事実は初めて確認されたことであった。
(22)大坂代官ヨリ之書
摂河泉は豊臣氏の没落以後、天領や旗本領が錯綜する支配にしたため、大坂には代官所が置かれていた。この書簡は代官所の役人が江戸に送ってものと思われる。
特に例会で話題に登った事柄といえば、「しころ頭巾」の確認だけで、内容的には間題は出なかった。ただ、終わりの方で「枚方ヨリ所々之人数二而容易二不通侯旨二侯」とある一文は、具体的に何を意味ずるか気になったが、それ以上の記述がないので分からないと思い、話題にしなかった。
(23)勢州ヨリ来書
この書状は、誰から誰に宛てられた書状かあきらかでなく、伊勢から大坂へ来書であることだけがわかる。しかし、冒頭の「19日巳刻ころ震動一つどおんとした」との報せは、ほんとうか疑問がでた。大坂の砲声が50里も離れた伊勢に届くわけがない。書状の受取人も「勢州ヨリ京都江三十里、京ヨリ大坂へ十八里二而、都合五十里程御座候、砲声聞五十里」と書き込んでいるが、半信半疑だったにちがいない。
(24)山本大膳役所ヨリ書
飛脚屋京屋より山本大膳役所へ出されたものだが、この山本大膳役所とはどこにあってどんな役所か不明。差し出されたのが23日、28日に到着しているので、江戸への書かとも考えられる。
内容の面で特に目新しいことが記されているわけではないが、大塩一党として平八郎ら7人の名前が書き込まれていて、そのなかに「ほおずき忠兵衛」のことが「捧突忠兵衛」と記されている。「ほおずき」を適当な音読みの字をあて、「捧突」としたのではないか。「棒突」(社寺の境内などを六尺棒を突きながら警固する男)のことをさしたのではないだろう。
加嶋屋覚兵衛宅(玉水町か、大坂の西にある)に昼から参ると言って江戸堀までくると、権現様あたりから煙が出ている。今朝役所でなにやらあったようだ、まあ遠いからと思って安治川の用事を済ませてまた江戸堀にもどってきて、橋の上から眺めるとやはり天満が火事のようだ。昼飯を待っていると、下働きの者が帰ってきて、鉄砲を打ち掛け槍長刀を振り回し火事場へ寄せ付けない、鐙甲で武装し、近付けない、恐ろしいが、珍しいことでした、という。そうこう話すうち、近所の若い者が鉄砲に当たり水籠にのせられて帰ってきた。呉服町の親類の家に寄り岩八という者に火事の様子を見に行かせた。そのうち東の方から逃げてくる者が増えてくる。逃げてきた親類の老人が東の方は大変なことになっている早く逃げよという。家の前を、恐ろしいことだ、橋が落ちた、とか言いながら人々が通っていく。
家の片付けも済ませて、加嶋屋へ行って火の見にのぼって見ると、天満屋敷の火勢が強い。北浜、今橋にも移っているようだ。鴻池庄十郎宅の屋根からも火煙がでている。風もなく、静かな天気なのにこういう有様はやはり、鉄砲で焼きたてているのだろう。恐ろしくなって火の見から降りると、加嶋屋では逃支度をしている。東の方の親類女子供はこちらに逃げてきて下屋敷に参りたいという。自分は岩八がどうなったか気にもなって、親類のうちにもどると、みんな逃げるつもりになっている。
岩八が戻ってきて、高麗橋では白旗4、5本立てて、槍長刀振り回し、大筒を車で引き、小筒など打ち、鎧武者5、6人刀を振り回しながら来るので一人も道にでていない、仰天しました、早く逃げましょう、と言う。その話をしているときも、声高に逃げてくる者が群集になってきた。外蔵に品物を預けに行った親類のせがれが戻ってこないが、貼り紙に行く先を書いて、門を閉め、南の方へ逃げ出した。
道頓堀まで来ると、ここでもみんな逃支度をしている。米高なので、南在に行っても入手が困難だろうと堺屋へ参り、米3升を借りた。ここでも逃支度をしていて話す間もなく、長町に出ると、逃げて来る人が群集になって、老人病人が多くて気の毒なことだ。
寺町は旦那衆が逃げ込んでいる。ようやく浮瀬に参り、お久米に頼んだところ快い返事だったので、家内11人やっと落ち着き、茶を一服、食事になった。誠に大坂中大騒動である。近くの清水の石段に登って見ると、8ツ半ごろだが船場の方は下火になり、まずは呉服町は大丈夫のようだ。東横堀川の東側は火勢はまだ強そうに見える。逃げてきた者の話では、淡路町、八軒屋までみんな焼けてしまった。
まだこの後、事件の風間が続いています。知り合いなどの被害のほどを書き上げています。見舞いなども必要で情報の収集は商人として大きな関心があったに違いありません。
筆者の丹波屋についてはよくわかりませんが、大坂の親類のところで騒ぎに巻き込まれ、大坂の南、四天王寺の近く浮瀬(うかむせ)という有名な科亭で落ち着くことができました。今は星光学院という学校の敷地内になっているところです。それまで、この料亭に出入りしていたので、危急の場合に保護が得られたのでしょう。加嶋屋などの大商人のところに出入りしているところからも相当な金持ちだったようです。幸い、親類宅も大坂の西の方だったのでこの話の中では、大きな被害はありませんでした。最初にでてきた山城屋、油屋は焼失し、預けた荷物はどうなったろうか心配しています。
この書付けは役所から書くようにいわれたものの下書きですが、慰めまでにお目にかけます、と結んでいますが、宛て先はわかりません。