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天保七年丙申の歳より丁酉の春に至るまで、霖雨久しきに亘り、為めに諸国
洪水氾濫し、加之に暴風裂風雨起りて、五穀熟せず、当時米の価は壱石に対
する銀三百目余まで騰貴するに至れり、是を以て民に菜色あり、餓 道路に
充つるの惨状を呈するに至れり、丁酉二月十九日、大阪東町奉行所元与力大
塩平八郎、摂津、播磨、河内、和泉の間に飛檄して、兵を大阪に挙ぐ、葢し
飢饑のため窮民を救済せんとするにあり、時に昇平の日久く上土騒然たり、
間もなくして乱を平けり、而して洛の内外も亦た餓 多し、是の時に当りて
潜菴之を座視するに忍ひす、即ち通明公に建言して曰く、救荒の策は土木を
興すに若がすと、倉庫を邸内に築き、以て近傍の細民を救はんことを請ふ、
公之を許す、是に於て細民を使役して、地築を為さしめ、各人に握り飯を与
へければ、細民吾れも/\と群蟻の赴くが如く、先を争ひて日に来集するも
の頗る多し、是を以て飢饉を免れしもの亦た尠なからず、是れ細微の事なり
と雖も、亦た救荒の一斑を見るに足らんか、若し之をして大国に施さば、民
を潤沢すること、果して如何んぞや、時に丙申丁酉の飢を記すの文あり、曰
く、
国家昇平なること已に久し、海内富饒、平安民庶、三十万有奇に至る、盛
なりと謂へき哉、丙申丁酉の際に当り、四方州郡、五穀熟らす、斛価三百
余、 民窮し財渇く、流離して餓死する者、五万六千人、甚哉富盛の以て
恃むべからざるや、予れ是に於て慨するあり、是の三十万有奇の中、五万
六千の人、飢るものは飢ゑ、死するもの死し、而して泯亡 滅せり、其不
幸は、豈言ふべけんや、而して其余二十四万四千有奇の人、之を彼の五万
六千に視れば則ち幸なり、然り而して二十四万四千有奇の人は、則ち亦卒
に彼の五万六千の人と同く氓滅に帰するや必せり、夫れ其死する所以は、
異なりと雖も、而して其死たるは則ち同し、如此乎、則ち彼の五万六千の
人、以て不幸と為すに足らず、而して二十四万四千有奇の人、以て幸と為
すに足らず、而して彼の五万六千の人、以て不幸と為すに足らず、則ち幸
と不幸とは、悪くんか定まる、嗚呼、惟人徳を修めて朽ちざるは、人生の
幸ひこれより大なるはなし、甚哉富盛の以て恃む可からざるや、原漢文
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通明公
久我通明
1780-1856
内大臣
石崎東国著
『大塩平八郎伝』
その90
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