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道光二十年より三年まで打ち続いた大饑饉の跡である。粤江の氾濫は
田畑と云はず、邸と云はず、地上の悉くを磧にしてしまつた。夏草の影
さへ乏しい。洪水後の疫病は、日毎に餓えた土民の生命を奪ひ、累々と
して横はる死屍、その腐肉に群らがる烏の鳴き声が喧しい。けれども、
末路に瀕した清朝政府は、民の惨禍を傍観してゐるのみである。
舞台は、桂平県鵬化山の山麓金田村である。荒涼たる磧の中に一軒の
小屋が立つてゐる。易清とその小供とが、磧でバツタを追つてゐる。
易清 そら、そつちへ逃げたぞ。(小供棒切を持つてヨロ\/と追ひ掛け
て行く)駄目だ。駄目だ。父やんに貸してみな。
小供 (棒切を投げ出し、崩れるやうに座り)お腹がペコ\/だア……。
易清 (棒切を拾つて)あゝ、待つてゐなよ。父やんが捕へてやるからな。
子供 早く喰べたいなア。
易清、力のない足取でバツタを追ひ廻すが、仲々捕へられない。百姓
の一、下手より蹌踉として、出て来て、鼠を捕へる猫のやうにバツタの
上へ身体を投げ出して捕へる。
百姓の一 おゝ、ありがたい、ありがたい(云つて)やつと食ひ物にあり
ついたぞ。(バツタを眺める)
易清 (走り寄つて)そのバツタ、俺らのだが。(と奪ふとする)
百姓の一 (素速くバツタを口に入れる)戯談云つちア不可ねえ。俺らが
捕へたんじやねえか。
易清 俺らが見付けたんだ。此の泥棒野郎め!
百姓の一 ハツハ……喰べるものさへ頂けば、泥棒でも強盗でも結構で御
座んす。
小供 あゝ……(泣き出す)
易清の妻、小屋から出て来る。
妻 (子供に)どうした?どうした?
小供 (百姓の一を指さして泣きながら)小父ちやんが奪つちまつたア、
小父ちやんが奪つちまつたア。
易清 此の泥棒がバツタを奪つたんだ。俺らが、坊にたべさせやうと思つ
てゐたのを奪つちまつたんだ。
妻 (百姓の一を睨んで)鬼!悪魔!
百姓の一 ヘツヘ……鬼でも悪魔でも結構で御座んす。どうぞ、たべるも
のをお恵み下さいませ。お腹が一杯になるまでたべたう御座んす。(乞
食のやうに叩頭する)
妻 戯談じアないよ。此方で貰ひたいやね(小供の手を引いて)さあ坊や、
お帰り。
百姓の一 あゝゝゝ(突然苦みを起し、地上を転げ廻つて絶命する。)
易清 あツ、疫病だ!疫病だ!(後ずさりながら)近づいちやアいかん。
易清親子、逃げるやうに小屋の中へ這入る。
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石崎東国
「大塩平八郎−太
平天国の建設者
大塩格之助−」
粤江(えつこう)
珠江の旧名
磧
(かわら)
河原
蹌踉
(そうろう)
よろけること
戯談
じょうだん
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