第二代将軍秀忠は元和元年(一六一五)五月、播州姫路の城主松平下
総守忠明を大坂城主に任じた。ときに年三十三、忠明は在職わずかに四
年にして元和五年七月大和郡山に転封せられ、それ以後大坂は幕府の直
轄地となった。かく忠明の在職期間は極めて短かかったが、その間にお
ける彼の治績はみるべきものがあった。
忠明はまず市街地の整理に着手し、市中及び接続村落の諸寺院を小橋
村・東西高津村・天満村の三カ所に集め、ただ一向宗の寺院に限って随
所に存在することを許して公私の諸役を負担させた。また墓地としては
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天満の町家に介在していたものを葭原村(いまの天神橋筋六丁目)、梅
田村(梅田町)に移転せしめた。
城下町の町割―都市計画―は多分に軍事的な配慮がめぐらされ、市外
から通じる道路は屈曲せしめたが、市内は直交した道路が整然としてい
た。封建制度の反映として与力同心の居住地域と商工業者の居住地域が
分たれ、与力及び同心が集団をしていた名残はいま与力町、同心町とし
て残っており、商人町や職人町の名残はいまの大工町、金屋町、あるい
は旅籠町、樽屋町である。寺院が中古から近世初期にかけて城下町の武
装化の役割をになったことは仏教の社会的、政治的勢力からみてもわか
ることである。かくて町割にあたって城下防禦の見地から寺院は上町の
高台と北辺を守るための寺町に配置されたが、北辺に配置されたのがい
まの東寺町、西寺町である。
松平忠明は元和二年(一六一六)には川崎(いまの滝川小学校の地)
に東照宮を建て、例年家康の忌日である四月十七日を大祭とし、市民を
して豊臣家追慕の念を失わしめ、徳川家の新恩に浴せしめるとともに徳
川家を謳歌させようとした。またいまの土地台帳である水帳を制定し、
地租にあたる地子銀を定めるなど、本市後年の繁栄は実にこの期に発し
ている。
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