Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その2

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第二章 江戸時代の繁栄
  一 城下町としての発展
     松平忠明の市街地整理(2)



東西の両町
奉行



































与力同心


 元和五年(一六一九)幕府の直轄地となって伏見城代内藤紀伊守信正 が大坂城代に任ぜられ、爾来明治維新に至るまでこの地に城代を置くこ ととし、譜代大名のうちで手腕ある者をこの職に補するのを常とした。 内藤紀伊守は松平忠明の献策によって伏見の町人を多く大坂に移住させ た。しかし城代以下城内の諸役人は市民の生活に対して間接的な関係を 有したが、これに反して東西の両町奉行は極めて直接的な交渉をもって いて、町奉行は老中の配下に属し訴訟の裁断、市政の大綱を掌り、いわ ば司法と行政を兼ねるものであった。町奉行ははじめ大坂三郷及び町続 を管轄していたが、享保七年(一七二二)から新たに摂津・河内・和泉・ 播磨の四カ国の地方事務をも支配するようになった。  奉行所は京橋門の前に東、西に併立していた(西町奉行所は妙知焼の 後に本町橋詰に移った)が町奉行を複数制としたのは徳川幕府が参勤交 代制を採ったと同様に、たがいに牽制せしめることを図ったのと、赴任 に際し政務に支障を来すことを防止しようとしたもので、町奉行は月番 と非番に分ち一カ月交代で事務を取扱った。  次に東西の町奉行に隷属するものに与力及び同心があった。与力は市 役所の局部長、同心は課長のようなものと考えてよく、与力及び同心は その数は大体一定し、与力は東西各三十騎、同心は各五十人であった。 与力は知行二百石を賜わり、河内交野部に封地を有していたが、元禄四 年以後は蔵米に引替え、知行八十石を賜わることとなり、同心は現米十 石三人扶持を給与きれた。与力、同心の屋敷は現在の与力町一・二丁目、 南同心町一・二丁目、北同心町一・二丁目にあたり、この附近は明治四 十二年の大火の難はまぬがれ、いまの与力町公園のあたりには今次の戦 災まで往時の屋敷をみかけることができた。   【図 与力、同心屋敷の地図(六分の一)       慶応二寅歳頭改           書林 天満鳴尾町、神崎屋金四郎 略】  与力一人につき四八〇坪、同心一人につき二〇〇坪の地を賜わり、古                 じかた 参の与力があたる職務の主なものは地方・川方・寺社方でこれを三役と 称した。地方は水帳の改正・家屋橋梁道路下水道の取締・芝居相撲の見 分・諸株諸仲間の支配であり、川方は両川口・大川枝川の浚渫そのほか 川筋の取締で、寺社方は住職の任免・寺社の普請・祭典の取締やこれら に関する訴訟の裁決を取扱った。右のほか与力には同心支配・目附・盗 賊役・牢扶持などがあり、同心は組頭・筆頭・物書役・牢屋敷取締など の諸役に分れ、また両者ともに諸御用調役・川浚役・吟味役・御普請役・ 火消役などの諸役があった。

   
 

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