Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その26

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第三章 江戸時代の文化と社会
  二 文学と学問
     郷土の生んだ俳人・歌人(3)
管理人註

上田秋成



雨月物語








































大隈言道

 江戸時代も後期に入り、西鶴以後の小説が次第に現実生活から離れて、 趣向に力点をおいたものとなったが、昭和二十七年ヴェニスの国際映画 コンクールで入賞した映画「雨月物語」の原作者上田秋成も生粋の北区 人である。秋成は享保十九年(一七三四〉曽根崎新地に生れ彼の母は妓 女であったといわれ、四才のとき堂島の商家上田家に養われた。五才の とき重い痘瘡にかかり、生涯病弱であったため、青年時代には自分の病 身に対する屈辱感もあって、かなり無自覚な遊蕩生活にふける一時期も あり、医業に志したこともあった。神秘的な幻想にふける癖もあったが、 才気にみちた人で「雨月物語」を刊行したのは安永五年(一七七六)の                     か ぐ は し ことであった。いま東淀川区である加島の香具波志神社に信仰あつく、 生活転向の温床としてしばしば参詣し、神宮宅に寄寓して国学を講じま た茶の湯を楽んだ。後に左眼を失明し京都に移ったが、風雅を楽しみ 「清風瑣言」二巻を書き、茶道についても一家をなし俳諧、国学にも長 じたが、寛政九年(一七九七)ついに両眼を失明し、貧しい余生を送っ た。文化六年(一八〇九)十一月二十六日、七十八才をもって歿したが、 自分が予期しなかった長命を感謝し、享和元年六十八首の和歌を香具波 志神社に奉納している。彼の歌は万葉・古今調であるが、新鮮味をもっ ていると称されている。   生駒根の雲は嵐にふきおちて麓の里をこむるあま霧   大そらをうち傾けてふる雪に天の河原はあせにけるかも  大隈言道は寛政十年(一七九八)福岡に生れ和歌・書道・絵画・音楽 などを学び、従来の歌風をあきたらずとし、三十五才のころ和歌の革新 を志したが、家運が衰え安政四年(一八五七)十月、大坂に移り、筑前 藩の蔵屋敷に旅装を解き、間もなく栴檀木橋のほとりに転じた。そのこ ろの書翰に  「わたくし無異、栴檀木橋第二楼、中之島のすさき鳧居室と号し申  侯……。其方は黄金の山、わたくし住居の向ひ、かしまや雁次、日本  一金のかたまりに御座候。一つも羨しからず侯……。」  とある。それから後は今橋一丁目、天満の光専寺に住んだが、筑前藩 勘定奉行大岡克俊らの保護をうけ、この紹介でしばしば富豪に出入する ようになり、彼の伝に  「或時鴻池かしまや等の豪商参会あり、大岡克俊其席にて翁を紹介せ  らる。翁直ちに    まなづるの群れたる空にまじりても身の嬉しさになく雲雀かな  と詠出られたが、此歌痛く人々の嘆賞する処となりて、それより次第  に信望を得て同地の富豪とも 往来の途開けて名声を博するに至った」 とある。彼が大坂に住んだのは十年余りで、中風症を病んで郷里に帰り、 慶応四年七月二十九日齢七十一才で逝去した。天満の光専寺は明治四十 二年の大火に焼け、旧居もいまは不明である。  言道の家集に草径集三巻があり、九百六十余首を収めているが、既成 的歌風を模倣することなく独自の個性ある歌を詠んだ。   あくがれてみてし都の花さへも夢にながるる淀の川面   風吹けば空なる星もともしびの動くがごとくひかる夜半かな また小児を詠んでは生活に根ざして深い愛情を示し、現代人の心境に共 鳴するものがあるといわれている。   さし柳さして幾日も経ぬものを根ざし引き見る友わらはかな   泣くものは大人にならじ泣くものは柿も与へじ梨も与へじ

大隈言道
おおくま
ことみち














 

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