Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.30

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その25

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第三章 江戸時代の文化と社会
  二 文学と学問
     郷土の生んだ俳人・歌人(2)
管理人註


小西来山

































上島鬼貫
































与謝蕪村

























春風馬場曲

 「涼しさに四つ橋を四つ渡りけり」の句によって親しまれている小西 来山は、承応三年(一六五四)平野町に生れ、九才のときに父を亡くし 母の手で育てられ、風月を友として俳諧に没頭すると同時に醇めること がないほど酒を楽しんだ。来山も談林の風に親しみ、しばらく渡辺橋の ほとりに住んでいたが、のち今宮に草庵を結び   お奉行の名さへ覚えず年くれぬ の句をつくったために、咎めを受けて町内を追われたといい、また彼は 母に孝養をつくすため旅をしなかったといわれる。     わずか三里にたらぬ所ながら     旅の心地せられて何もかもめづらし   むしってはむしっては捨て春の草   野の花や菜種が果は山の際  来山は享保元年(一七一六)六十三才にて歿し、墓は天王寺区逢坂の 一心寺にあり、彼の号によって「湛々翁之墓」と記されている。                               かみじま  江戸の俳聖、芭蕉一門とは別派の存在として、関西で気をはいた上島 おにつら 鬼貰は伊丹の人で、曽根崎川の下流に架けられていた汐津橋のほとりに 佗住居をしていた。彼は随筆に当時の風物をつぎのように叙している。  「右には武庫、淡路のつづき遠く聳え左は生駒かつらぎの峰はるかに  高し、むかう堂島の新地家立ならび船きほふ、堀江の川風西海の浪わ  すれ入日ををしむ」  俳人としても、彼は自然のままを素直に作為をまじえずに詠んだ。     福島住居のとし   つくつくともののはじまる火燵かな   行水の捨てどころなし虫の声  鬼貰は元文三年(一七三八〉八月二日、大坂の島の内鰻谷に歿し享年 七十八才、墓は大淀区長柄の鶴満寺にあり、摂津伊丹の墨染寺に碑石が 残されている。  俳人谷口(後に与謝)蕪村はどこの誰の子であるという伝えもなく、 また遺跡らしいものも少ないが、彼の句   春の水山なき国を流れけり は優に蕪村が淀川の生んだ俳人であることを語っており、昭和二十八年 故里である大淀区毛馬閘門のほとりに「春の風堤長ふして家遠し」と彼 の句の記された顕彰碑が建てられた。   【写真 蕪村の碑 略】  蕪村は芭蕉死してのち二十二年、享保元年(一七一六)毛馬(現在は 新淀川河川敷となる)に生れ幼時に父母に死別し、二十才にして浪速を 去ったが、安永五年(一七七六)旅に来てなつかしい故郷、毛馬の地を 往復の舟から眺めて追憶の情を綴ったのが「春風馬堤曲」で   やぶ入や浪花を出て長柄川   一軒の茶見世の柳老にけり  などの句をこめて、田舎娘が親里まで帰る道行を物語る長詩である。 「馬堤」とは毛馬の堤をいい、彼の郷土に対する切ない懐旧の情を托し たものというべく、添えられた書簡に  「余幼童之時、春色清和の日には必友どちと此堤上にのぼりて遊び候、  水には上下の船あり、堤には往来の客あり」 と幼い日の思出を綴っている。  蕪村は江戸に出て関東・奥羽地方を遊歴し、この間は主として絵画の 修業に費したが、俳諧を遠ざかったわけではなく、二十九才はじめて蕪 村の号を用い、宝暦元年(一七五一)長い流寓の生活を捨てて、丹後与 謝村に移って谷口を与謝と改めたといわれる。天明俳壇の革新者、大坂 の生んだ俳聖としていまなお知られているが、画人としても大雅堂とと もに、わが国南宗画の開拓者である。天明三年(一七八三)十二月二十 四日、六十八才にして京都で歿した。

大淀区は
1989年
北区と合区

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