Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その37

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  一 自治制の確立と立憲政治
     自由民権運動
管理人註


板垣退助




























民選議院設
立建言




































自由党の結
成
















太融寺にお
ける自由党
大会























憲法発布

 維新後、大阪は憲政史上にも重要な役割を演じており、明治八年一月、 板垣退助・木戸孝允・大久保利通らが相会し、いわゆる大阪会議があっ て、わが国の立憲政治樹立の上に一歩を進めることとなった。また「板 垣死すとも自由は死せず」と絶叫して天下の自由主義者を熱狂歓喜せし めた板垣退助が十七年十月、自由党の解党を宣したのは北野の太融寺で あった。  すなわち政府が廃藩置県につづいて行った大改革は国内に大きな不安 をひきおこした。土地の私有権が確立され明治六年七月から地租改正に よって農民は責租と殆んど変らない租税を金納しなければならなくなっ て、中小農民は窮乏に陥り一揆が各地に起った。また封建的身分制度を 撤廃し、同六年に徴兵令を施行して国民皆兵の制を樹立し、九年には士 族の帯刀を廃止し、家録の整理を進めたので士族の不安も増大し、ここ に反政府運動がおきるようになった。  七年一月、板垣退助らは「民選議院設立建言」を提出して政府の専制 を攻撃し、十一年九月大阪に愛国社を設立して、これを自由民権団体の 全国的聯合体にしようと計画した。愛国社は本社を土佐堀三丁目におい て、春秋二季の大会を開き、十三年四月の第四回大会には参会するもの 実に二府二十七県に及び、会員約八方七千余人の総代百四十余名に達し、 名称を国会期成同盟と改め、自由民権思想も著しく発達するに至った。  そのころ書生たちのうちにはフランス革命を語り、ルソーを説き、政 治運動に興味をもつ、いわゆる壮士が生れ、また芝居に入って舞台から 観客に政論を説く壮士芝居の一群も生れた。一般世人も倉のなかに有志 が集って演説会を開いたり、「民権自由数へ唄」が作られたりしたが、 二十二年四月十一日の新聞広告には壮士が募集されている。  勇敢猛烈の壮士二十名募集す。内十七名は散宿せしめ学資を給し、三  名は同居を諾し学資を給す。         北区天神橋筋一丁日 大阪壮士倶楽部取締 菅原道親  政府も九年元老院に憲法草案の起草を命じ、十四年には二十三年を期 して国会を開設することを明かにした詔勅を発した。  板垣ら全国の同志の決意は固く、十四年愛国社の第五回大会が東京に 開催され、機熟して自由党が結成され、板垣退助はその総理となって愛 国社は自然に解散された。東京に自由党が結成されて後、大阪にその別 動体ともみるべき日本立憲政党なるものが生れ、日本立憲政党新聞を発 行して自由民権を鼓吹した。政府の民権派に対する弾圧も、いよいよ強 化され県令三島通庸が河野盤州らを捕えた福島事件をはじめ高田事件・ 群馬事件・秩父騒動など大小の事件が各地に続発する有様であったが、 政府の切り崩しなどによって自由民権運動は衰えていった。  この推移に禍された自由党は十七年十月二十九日、北野の太融寺に秋 季大会を開き板垣をして血を吐くような解党宣言をつぎのように弁ぜし めた。  「世の諺に斃れて己むといへど余は之に反して繁るるも猶且己まずと  覚悟せり。然るに本日諸君と別るるのちは土佐の新田に引取り暫しが  内は昼寝する目的なり。若此間に命脈の絶て死に至るも計られず、そ  の時諸君は余を草葬の中に葬り、僅かに目標の碑を建て給へ、然る後  時機に遭遇するを待ち一大石碑を建立あらんことを深く諸君に望むな  り」  党員一同は板垣をエイサエイサと十分位も胴上げして、朝の九時から 夜の九時ごろまで十二時間にわたる解散大会を終った。  他方かねて憲法制定の準備に着手していた政府は憲法が公布されるに さきだち、十八年内閣制度を設け伊藤博文が総理大臣となった。また地 方自治制の整備をはかり、明治二十二年二月十一日の紀元節を期して憲 法が発布された。

   
 

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