Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.11.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その55

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  四 市域の拡張と明治後期
     淀川改修と大阪築港
管理人註


淀川改修の
運動










淀川改修工
事









毛馬洗堰















開港当時

















築港工事




















第一期工事
の完成

 明治十八年の洪水は淀川の改修を必至とし、政府に対する淀川改修の 猛運動が行われたが容易に成立を見るに至らなかった。しかし治水に熱 心な知事建野郷三、つづいて土木事業に明るい知事西村捨三や、治水翁 の称ある放出の戸長、後の府会議員大橋房太郎らの政府・衆議院に対す る熱心な嘆願・建議は折柄日清戦争前後の国費多端をおかして、明治二 十九年十カ年継続事業として淀川改修費を両院を通過せしめるに至った。 後に施工期間は十五カ年に延長をみたが、川幅の拡張・堤防の増嵩・新 淀川の開さくを含む大工事でこの間の買収反別一千百四十五町余、総工 事費予算額干九百一千万円、そのうち国庫支弁七百十三万一千円、他は 大阪・京都・滋賀の三府県負担であった。これによって新たに中津川の 一部を利用して新淀川を開さくして放水路とし、市中を貫流する旧淀川 への洪水の流入を断とうとするもので、市内に入る水量を調節するもの が毛馬の洗堰である。洗堰・閘門とも煉瓦造で三十五年十二月着手、四 十三年一月その竣功をみた。  その後、大正六年九月の大雨には淀川左岸の堤防は決潰をまぬがれた が、右岸における被告は甚大であり北河内・三島・西成三部あわせて床 上浸水一万二千八百戸に及び、ここに淀川改修増補工事が行われること となり、永く大阪は淀川の水禍をまぬがれることができるに至った。  大阪が港として世界の檜舞台に乗出したのは明治元年七月十五日に開 港条約が発布された時であるが、当時は何らの設備もなく、河口は絶え ず淀川からの砂泥に埋まるのみで、その繁栄はもっばら長崎、兵庫港に 奪われるばかりであった。しかし当時の市民は大阪築港の実現如何が、 大阪の将来の盛衰を左右する問題であるとし、有識者の間に熱心に唱え られいくたびか計画が樹てられた。知事渡辺昇は市民の手によって築港 をつくるべく鴻池善右衛門方に促進事務所を設け、各区長らをして市内 の富豪・巨商を説いて寄附金を募らせ三百万円の資金を得たが、商工業 資金の枯渇することを憂えた政府の反対するところとなり実現に至らな かった。遂に市の事業として築港工事を行うこととなり、明治二十九年 五月、工事費干八百万円の予算を市会が満場一致をもって可決した。当 時本市の予算がわずかに百万円内外であったことを思うと、この築港の 計画が市民の熱烈な要望にもとづくものであったことがうかがわれる。  この起工式は翌三十年十月小松宮彰仁親王台臨のもとに行われ、嘗て の府知事であった北海道炭礦鉄道株式会社々長西村捨三を築港事務所長 とし、土木技術界の権威沖野忠雄博士を工事長として工事を進めたが、 なかなか予想通り進捗せず一時は工事の中止説さえ出た。しかし三十六 年には突堤、桟橋の一部を一般の利用に開放するようになり、市電第一 期線として築港線も開通して、日露戦争のときには軍事上にも多大の責 献をした。そののち迂余曲折を経て昭和四年三月には第一期工事を全部 完成した。完成まで実に三十有三年、工費一億円を超える大事業であっ た。  昭和九年には横浜、神戸とともに三大貿易港の一に数えられ、殊に輸 出の進出はめざましく全国輸出総額の四分の一強、すなわち五億八千六 百余万円に達し、内外貿易額を通産するときは、本邦第一位を占めるに 至った。その後、九年の室戸台風に大被害を蒙り、戦災とそれにつづく ジェーン台風の打撃も加わり昔日の繁栄を失うに至ったので、いま内港 化工事が急がれており、大阪港の完成如何はいまなお大阪永遠の繁栄を 左右する問題となっている。

1965年、弁天埠頭
開港、その後
南港のフェリー
ターミナルの整
備により廃止。

 

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