Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.31

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その54

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  四 市域の拡張と明治後期
     北区の大火(2)
管理人註


救護活動
































御下賜金











財団法人弘
済会

 そこでこれが救護のため八月一日深夜、市に臨時救護団を設け仏照寺 (天満別院)・太融寺・曽根崎校・第一上福島校・私立金蘭会高女に救 護団出張所を設け、陸軍衛戍病院の協力による救護班を、また歩兵部隊 の協力を得て炊さん隊を設け給食にあたった。そのとき取扱った傷病者 数は実に一、六九三人に達し、重症者は大学病院・赤十字病院などへ入 院せしめた。罹災者の収容を要するもの多数に上り、給食希望者のなか には罹災者でない者が遊食しようとする者が増加するに至ったので食券 制を採った。罹災者に対しても収容所を退去または復帰するように努め、 八月八日の収容人員二、八二〇名、七日の給養人員四、五七一名を最高 として漸減し、八月十七日には収容者も四五六名に減じ職制を臨時救護 部に改め、木津川尻の府立隔離所を事務所並に収容所にあてた。収容者 にして所内の安寧秩序を乱り不穏行為を行う者に退去を命じて秩序の維 持をはかり、できる限り自活の途を講ぜしめ職業を紹介して労務に就か しめ、また収容中の児童には学園を設けて普通教育を授けた。赤痢患者 の発生をみたり種々波乱を生んだが、十月二十五日をもって残員二十二 名を他に移送して木津川収容所を閉鎖した。  この大火の報が伝わり、明治天皇は八月六日、日野西侍従を差遣され て罹災の状況を視察せしめられ救恤金一万二千円を下賜された。後にこ の御下賜金はその達の写を添えて全罹災世帯に一円ずつ分配された。全 国から、遠く海外からも七十三万九千三百円に達する多額の義捐金が寄 せられたが、この一部を罹災者に分配するとともに、その残余金三十五 万二千円に同額の市費を加えて、恒久的施設として財団法人弘済会が設 立された。これが今日の山田村の市立弘済院の発端である。全国から寄 せられた義捐物品については、臨時に市立高商跡にバラック倉庫を急造 するなどしてこれを保管し、十月十日から三次にわたって分配した。そ の間、市吏員の義捐物品横領という不祥事件を招来し司直の処分を受け るに至り、これがため十二月十五日山下市長・藤村助役は責を負って退 職することとなった。  【罹災世帯に御下賜金を分配したときに添付した写 略】  大火のあと、その瓦礫をもって戯曲に馴染深い曽根崎川が埋立てられ た。またいまの空心町から梅田新道を経て桜橋に至る市電道路も、この 焼け跡の土地を利用して敷設され明治四十四年七月開通するに至った。

   
 

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