Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その9

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第二章 江戸時代の繁栄
  二 蔵屋敷と堂島米市場
     蔵元・掛屋の勢力(1)
管理人註









蔵元、掛屋










蔵元の勢威

 蔵屋敷には各藩から出張して来た蔵役人が蔵物の出納を掌っていた。 蔵役人には代々、大坂に詰め家庭を持つ者と二、三年ずつ交代して各藩 から詰める者とがあり、蔵役人の首席が留守居役で、その下に目付・検 査役・書記・勘定方などがあった。蔵役人は正保の頃(一六四四−一六 四七)から後には実際の出納を出入の町人、すなわち蔵元に委ねるよう になった。掛屋は蔵物の売買に関して金銀の授受保管にあたり、掛屋は 蔵元が兼ね、両替屋が兼ねることもあった。鴻池善右衛門は広島・岡山 など五藩の掛屋を兼ね、升屋平右衛門の如きは独刀をもって仙台藩の財 政を運営したと称されるに至った。  掛屋は諸国に対する金融機関となり、蔵元が藩の財政に対して有する 力は大きいものがあった。蔵屋敷のうちに御殿があって藩主が江戸参勤 交代の際などに、ここに立寄って二・三日逗留する場所であった。藩主 や家老が来臨の際は蔵元・掛屋一同はお目見得を許され、拝領願上など の式があった。また年始・節句・八朔及び毎月の朔日・十五日には蔵元・ 掛屋は裃あるいは羽織袴で蔵屋敷へ礼に行き、蔵屋敷からも答礼があっ た。蔵役人の留守居役は掛屋その他に対して饗宴を張ることがあり、重 大な相談の場合はこれを「お振舞」と称してお茶屋でやり、芝居見物や 夏には納涼船に乗込むなど亨楽をほしいままにした。また蔵屋敷にはす べて稲荷の祠と、その藩の有名な神祇が祭られ祭典が賑わしく行われた。  蔵屋敷の数や位置は次表(「経済史研究」昭和六年一月号による)の ように変動があり、明治四年七月廃藩置県によって俄かに廃止されたが、 昭和初年ごろまで土佐堀川のほとりにその面影をとどめる建物がみうけ られた。    延享四年  宝暦六年  天明三年  文化十一年 天保六年  維新前    (一七四七) (一七五六) (一七八三) (一八一四) (一八三五) 中之島 三六    三七   三四    四一    四三   三八 堂 島 一五    一三   一二    一五    二一   一八 天 満 一二    一二   一一    一二    一六   一四 土佐堀 一四    一一    九    一二    一四   一一 江戸堀  三     五    八     六     五    七 その他  九     七    三     六    一二   一〇  計  八九    八五   七七    九二   一一一   九八







升屋4代の
大番頭が
山片蟠桃


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