米切手は大てい一枚十石券で、米切手の本文は蔵によって相違してい
るが、「右切過候はば可*為*反古*、水火之難不*存候」としたものもあ
る。切とは保管期限の意で、保管中の米穀に水火の災害があっても弁償
の責に任じなかったわけである。米切手の所有者は切手を蔵屋敷に持参
で
して出米を請うも、あるいはこれを買持し機を待って売却するも随意で
あり、切手は売買買入をすることができた。米切手に関する取締の最も
古いものは承応三年(一六五四)の触書で、切手といわずに手形と書か
れ、蔵出期限を厳守し、手形の転売を禁じ、実米持たずに先手形を発行
すること禁じていた。先手形は後の空米切手のことであるから空米切手
はすでにこの頃からあった。
米切手による実需給取引は差益を目的とする商取引を交えるに至り、
さらに進んで差益のみの授受を目的とする差金取引に転化するに至るこ
とは自然の成行であった。かく米切手の売買を行ったのが淀屋の米市で、
正保初年(一六四四)ごろから堂島に移る元禄十年(一六九七)ごろま
で約五十年間が淀屋の米市の時代であった。
蔵物は米穀が主であったが、土佐藩の鰹節、備後福山藩の畳表、徳島
藩の藍玉というような諸国の産物も多かった。
蔵屋敷に廻送された砂糖は天明年間以前は薩摩藩の黒砂糖に限られて
いたが、寛政六年讃岐高松藩から来たのを最初として文化五年(一八〇
八)には阿波産を筆頭に高松・泉州・丸亀・多度津の諸藩から廻着した
和糖が次第に増加して薩摩藩の黒砂糖を圧倒する傾向にあり、島津家か
ら抗議があって制限を加えられたりしたが、密輸が盛んで、天保二・三
年(一八三一)には一千百二十三万斤にも達していた。
こうして諸国の砂糖は大坂に集まり、大坂の砂糖市場には商人の独占
的同業組合たる「株仲間」が成立したが、各藩が重要商品の多くを藩営
専売仕法によったのに伴って、砂糖の販売を委託された問屋は常に一定
の各藩に所属するようになっていた。
白毛綿は播磨七十万反、淡路・備前・周防四十万反ずつ、和泉二十万
反、伊予・河内・安芸・出雲・土佐・豊後十万反ずつ、その他で一カ年
二百六十五万反、これに周防・和泉・摂津・河内などから縞毛綿約八万
反が入って来た。文化年間(一八〇四−一八一七)に入って毛綿移入高
は年額八百万反にも達した。
蔵屋敷に入った紙は岩国半紙を標準に相場を立て紙商人をして入札引
受けしめた。米価の高かった天保十二年(一八四一)ごろは製紙原料た
る楮の栽培を減じたため、供給が不足して紙価は暴騰した。
牛馬皮を主とする皮革は用途多く、大坂で精製する品は全国に行き渡っ
ていて、牛馬皮革晒工業は姫路領に限られていた。
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