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天保八年二月二十一日、平野郷の産土神社の中で、昨夜来夜通しの大
し け うゑ
雨風をしのいだ平八郎父子と瀬田との三人は、寒さと饑とに体を固くし
ながら、雨風の静まるのを待つてゐたが、夜が白み染めても、風の静ま
・ ・ ・
る気色もなく、あ目はざんざと降りそそいでゐた。
『――』
平八郎は狐格子の間から、暗鬱な夜明けの空を睨んで、歯を食ひしば
つて、黙然としてゐた。
そばには、渡辺の死骸がころがつてゐる。
・ ・ ・ ・ ・
大阪の失敗、渡辺の死――平八郎の頭はずきん/\と痛んでくるので
あつた。
『たう/\俺も乱民の一人となつて果てるのか!』
平八郎は胸の中で人知れず呟いた。
ゆうべ ・ ・
昨夜やうやくここまで辿りついて、ほつと一息したかと思ふと、渡辺
が突然顔をあげた。
『先生!もうこの先歩けませぬ――』
無理もない、十九日の夜以来、飲まず食はずの強行軍である。
『心細いことをいふな。渡辺――』
とはげましては見るものの、この上歩いてついて来いといふのは却つ
ざんこく
て惨酷に近い。といつて、ここへ残すわけにも行かない。
大阪の義挙空しく破れて、今は天下の乱徒として追捕を受けてゐる一
行である。
『この上は、先生の足手纏ひにならぬやうにいたします』
渡辺は、手早く脇差を抜いて腹につきたてた。
きつさき
左の脇腹に三寸余り切尖が這入つて、鮮血がほとばしつた。
はや
『渡辺、逸まつたな――』
『いや、渡辺は本望です。済世救民!先生の志に従つて、たとへ一臂の
力でも添へたのです。本望です!』
『さう思つてくれるか!』
平八郎は嬉しかつた。たとへ、計画通り行かなかつたにしても、自分
の信頼する同志が、事の成敗よりも、その根本の精神を知つてくれる。
それが、涙ぐましいほど嬉しかつた。
『苦しませるも却つて無慈悲、渡辺、介錯するぞ!』
かたじけの
『忝うござります』
平八郎は、面をそむけながらも介錯の太刀をとつた。
そ
その渡辺の色の白い、反つ歯の、温厚さうな顔が、首となつてころが
つてゐる。
外の雨風は相変らずはげしい。
『先生、ここにいつまでもゐられはしますまい』
瀬田も疲れた体を格子にあてて、外の気配を窺つた。
『行かう、大和境までは人に見つけられてはならぬ、行かう』
平八郎に、今後のことに対するどんな考へがあるのか、格之助も、瀬
田も知らなかつた。
しかし、彼等は平八郎を絶対に信頼してゐた。
人家に立ち寄らず、食は乞はず、間道から間道への強行軍にも彼等は
不平一つ云はなかつた。
『さらば、渡辺』
平八郎も格之助も瀬田も、死んで行つた同志に合掌念仏を残して、格
子の外に出た。
雨具もない着のみ着のまま、大風、大雨の中を三人は東北に向つて足
を早めた。
ひる
風雨はやうやう午頃になつてやんだが、肌まで濡れ通つた雨は、体の
感覚を失ふ程に凍えさせる。
『先生、この羽織を――』
瀬田は見かねて、自分の羽織を脱いだ。
『いや、寒くはない――』
・ ・ ・ ・
といつたが、さういう声も、歯をかち/\鳴らさなければ出ないほど、
ふる
寒さに顫へてゐる平八郎であつた。
『どうぞ、私は若いのです――』
瀬田は強いて、羽織を平八郎に着せかけたが、冬の雨にうち叩かれ、
あま
濡れしよびれた体、剩つさへ
食はず飲まずで、どうして寒くないことがあらう。瀬田は唇を蒼くして、
がた/\顫へながら、それを平八郎に見せまいとして頑張つた。
やうやく、大和川の支流の幾つかを渡つて、高安郡恩地の村まで辿り
ついた頃は、ずんぶりと暮れた夜であつた。
・ ・ ・ ・ あかり
遠く、ちら/\と人家の灯も見える。
そこへ行けば、温くないまでも、一枚や二枚の蒲団もあらう。粥の一
・ ・ ・ ・
ぱいも啜らせて貰へるのであらう。だが、うつかり人家に寄りつけない
彼等であつた。
一、年齢四十五六歳
一、眉細く薄し
一、額広く、月代青し
一、中肉中背
一、顔細長く色白し
一 言語爽かにて鋭し
右、大塩平八郎
といつたやうな詳細な人相書は、平八郎ばかりでなく、格之助も瀬田も
それ/゛\人相書を廻されてゐる身の上であつた。
『辻堂があります』
格之助が、籔蔭の辻堂を探しあてた。
たきび
近くから枯枝などをかき集めて来て、その中で恐る恐る焚火をして、
三人は暖をとつた。
『格之助、もつと体をよせて火を囲め、外から見える――』
焚火といつても、人目をはばかる枯小枝を焚いてゐるだけのこと、骨
の髄までしみこんだ寒さがどうならう。
『大阪では、兵火の焔と城内の篝火とがさかんに燃え立つてをりました
が――』
格之助は大阪を逃れた日のことを思ひ出したらしい。
それを聞くと、大塩の昂奮の焔は燃え上つた。
『格之助、俺はあの火が呪はしかつた。人々の難儀をよそに、江戸、江
つら
戸と、将軍の他には天下に人間が居らぬやうな山城守が面憎かつた。俺
はあの山城を搦めとり、大阪の豪商を説いて、弓矢に訴へずに人民の困
窮を救ひたかつた。』
『裏切者のあやつさへゐなければ、父上の志は思ふがままに遂げられた
でござりませうに――』
『あの平山か!』
平八郎は噛んで吐き出すやうにいつた。
うつ
瀬田は、俯向いて額に手をあててゐた。
『瀬田、どうした?』
ものう
平八郎が声をかけると、瀬田は懶げに顔を上げた。
ひごろ
その頃は、日顔、蒼白な彼の顔にも似ず、赤々として、眼が血走つて
ゐた。
・ ・ ・ ・
平八郎が、驚いて、彼の額に手をやつてみると、ぽつぽつと燃え立つ
やうな大熱であつた。
『これは大変だ。瀬田、人家へ立ち寄り、保養して、後から来るがいい』
『しかし、人家へ立ち寄つては――』
『いや、かまはぬ。行つて保養して来い』
『しかし――』
・ ・ ・ ・
瀬田済之助は何かまだいはうとしたが、空しく喘いで、またがつくり
とうなだれた。
『心をつかふ必要はない、お前も俺も一心同体ぢや、安心して保養しろ』
『しかし、私故に先生の行衛を知られるやうなことになりましては――』
瀬田は、昨夜の渡辺の最期を思つて、自分も同様に処決しやうと思つ
たが、刀剣を脱く気力さへなかつた。いや、それより平八郎と格之助の
心を挫くことを思ふと心が鈍つた。
『その時は大塩平八郎、天から見はなされたと思ふだけぢや、苦しから
うのう、それ、向ふに人家の灯が見える、そら、そこの田圃道を』
平八郎が更にさう促すと、彼は素直にそれに従ふ事に決意した。
『さらば先生、格之助殿……』
『気を付けてゆけよ……』
瀬田は、もう、自分の意志ではどうすることも出来ない状態にあつた。
・ ・ ・ ・
大塩の言葉のまま、暗示にかかつたやうにとば/\と田圃道を歩き出し
た。
いくたび
だが、これが別れと思つて幾度か平八郎の方を振返つたが、無論声は
出せなかつた。
平八郎も同じ思ひで、夜の闇に吸はれてゆく瀬田の姿を見送つた。
――とう/\見えなくなつた。
平八郎はスツクと立上ると、焚火の跡を踏み消して、格之助と共に、
又降り出した雨の中を、闇に紛れて信貴越の間道へと志した。
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瀬田済之助
渡辺良左衛門
「御触」
その2
「人相書」
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