Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.4.30

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「大塩の乱関係論文集」目次


「或る日の大塩平八郎」

浩文社編輯部編

『或日の偉人』所収 浩文社 1934

◇禁転載◇

或る日の大塩平八郎 管理人註
   

 天保八年二月二十一日、平野郷の産土神社の中で、昨夜来夜通しの大 し け                      うゑ 雨風をしのいだ平八郎父子と瀬田との三人は、寒さと饑とに体を固くし ながら、雨風の静まるのを待つてゐたが、夜が白み染めても、風の静ま            ・ ・ ・ る気色もなく、あ目はざんざと降りそそいでゐた。 『――』  平八郎は狐格子の間から、暗鬱な夜明けの空を睨んで、歯を食ひしば つて、黙然としてゐた。  そばには、渡辺の死骸がころがつてゐる。                     ・ ・ ・ ・ ・  大阪の失敗、渡辺の死――平八郎の頭はずきん/\と痛んでくるので あつた。 『たう/\俺も乱民の一人となつて果てるのか!』  平八郎は胸の中で人知れず呟いた。  ゆうべ               ・ ・  昨夜やうやくここまで辿りついて、ほつと一息したかと思ふと、渡辺 が突然顔をあげた。 『先生!もうこの先歩けませぬ――』  無理もない、十九日の夜以来、飲まず食はずの強行軍である。 『心細いことをいふな。渡辺――』  とはげましては見るものの、この上歩いてついて来いといふのは却つ  ざんこく て惨酷に近い。といつて、ここへ残すわけにも行かない。  大阪の義挙空しく破れて、今は天下の乱徒として追捕を受けてゐる一 行である。 『この上は、先生の足手纏ひにならぬやうにいたします』  渡辺は、手早く脇差を抜いて腹につきたてた。           きつさき  左の脇腹に三寸余り切尖が這入つて、鮮血がほとばしつた。     はや 『渡辺、逸まつたな――』 『いや、渡辺は本望です。済世救民!先生の志に従つて、たとへ一臂の 力でも添へたのです。本望です!』 『さう思つてくれるか!』  平八郎は嬉しかつた。たとへ、計画通り行かなかつたにしても、自分 の信頼する同志が、事の成敗よりも、その根本の精神を知つてくれる。 それが、涙ぐましいほど嬉しかつた。 『苦しませるも却つて無慈悲、渡辺、介錯するぞ!』 かたじけの 『忝うござります』  平八郎は、面をそむけながらも介錯の太刀をとつた。              その渡辺の色の白い、反つ歯の、温厚さうな顔が、首となつてころが つてゐる。  外の雨風は相変らずはげしい。 『先生、ここにいつまでもゐられはしますまい』  瀬田も疲れた体を格子にあてて、外の気配を窺つた。 『行かう、大和境までは人に見つけられてはならぬ、行かう』  平八郎に、今後のことに対するどんな考へがあるのか、格之助も、瀬 田も知らなかつた。  しかし、彼等は平八郎を絶対に信頼してゐた。  人家に立ち寄らず、食は乞はず、間道から間道への強行軍にも彼等は 不平一つ云はなかつた。 『さらば、渡辺』  平八郎も格之助も瀬田も、死んで行つた同志に合掌念仏を残して、格 子の外に出た。  雨具もない着のみ着のまま、大風、大雨の中を三人は東北に向つて足 を早めた。         ひる  風雨はやうやう午頃になつてやんだが、肌まで濡れ通つた雨は、体の 感覚を失ふ程に凍えさせる。 『先生、この羽織を――』  瀬田は見かねて、自分の羽織を脱いだ。 『いや、寒くはない――』                 ・ ・ ・ ・ といつたが、さういう声も、歯をかち/\鳴らさなければ出ないほど、    ふる 寒さに顫へてゐる平八郎であつた。 『どうぞ、私は若いのです――』  瀬田は強いて、羽織を平八郎に着せかけたが、冬の雨にうち叩かれ、          あま 濡れしよびれた体、剩つさへ 食はず飲まずで、どうして寒くないことがあらう。瀬田は唇を蒼くして、 がた/\顫へながら、それを平八郎に見せまいとして頑張つた。  やうやく、大和川の支流の幾つかを渡つて、高安郡恩地の村まで辿り ついた頃は、ずんぶりと暮れた夜であつた。      ・ ・ ・ ・        あかり  遠く、ちら/\と人家の灯も見える。  そこへ行けば、温くないまでも、一枚や二枚の蒲団もあらう。粥の一                     ・ ・ ・ ・ ぱいも啜らせて貰へるのであらう。だが、うつかり人家に寄りつけない 彼等であつた。 一、年齢四十五六歳 一、眉細く薄し 一、額広く、月代青し 一、中肉中背 一、顔細長く色白し 一 言語爽かにて鋭し  右、大塩平八郎 といつたやうな詳細な人相書は、平八郎ばかりでなく、格之助も瀬田も それ/゛\人相書を廻されてゐる身の上であつた。 『辻堂があります』  格之助が、籔蔭の辻堂を探しあてた。                           たきび  近くから枯枝などをかき集めて来て、その中で恐る恐る焚火をして、 三人は暖をとつた。 『格之助、もつと体をよせて火を囲め、外から見える――』  焚火といつても、人目をはばかる枯小枝を焚いてゐるだけのこと、骨 の髄までしみこんだ寒さがどうならう。 『大阪では、兵火の焔と城内の篝火とがさかんに燃え立つてをりました が――』  格之助は大阪を逃れた日のことを思ひ出したらしい。  それを聞くと、大塩の昂奮の焔は燃え上つた。 『格之助、俺はあの火が呪はしかつた。人々の難儀をよそに、江戸、江                          つら 戸と、将軍の他には天下に人間が居らぬやうな山城守が面憎かつた。俺 はあの山城を搦めとり、大阪の豪商を説いて、弓矢に訴へずに人民の困 窮を救ひたかつた。』 『裏切者のあやつさへゐなければ、父上の志は思ふがままに遂げられた でござりませうに――』 『あの平山か!』  平八郎は噛んで吐き出すやうにいつた。      うつ  瀬田は、俯向いて額に手をあててゐた。 『瀬田、どうした?』                ものう  平八郎が声をかけると、瀬田は懶げに顔を上げた。       ひごろ  その頃は、日顔、蒼白な彼の顔にも似ず、赤々として、眼が血走つて ゐた。                         ・ ・ ・ ・  平八郎が、驚いて、彼の額に手をやつてみると、ぽつぽつと燃え立つ やうな大熱であつた。 『これは大変だ。瀬田、人家へ立ち寄り、保養して、後から来るがいい』 『しかし、人家へ立ち寄つては――』 『いや、かまはぬ。行つて保養して来い』 『しかし――』                              ・ ・ ・ ・  瀬田済之助は何かまだいはうとしたが、空しく喘いで、またがつくり とうなだれた。 『心をつかふ必要はない、お前も俺も一心同体ぢや、安心して保養しろ』 『しかし、私故に先生の行衛を知られるやうなことになりましては――』  瀬田は、昨夜の渡辺の最期を思つて、自分も同様に処決しやうと思つ たが、刀剣を脱く気力さへなかつた。いや、それより平八郎と格之助の 心を挫くことを思ふと心が鈍つた。 『その時は大塩平八郎、天から見はなされたと思ふだけぢや、苦しから うのう、それ、向ふに人家の灯が見える、そら、そこの田圃道を』  平八郎が更にさう促すと、彼は素直にそれに従ふ事に決意した。 『さらば先生、格之助殿……』 『気を付けてゆけよ……』  瀬田は、もう、自分の意志ではどうすることも出来ない状態にあつた。                     ・ ・ ・ ・ 大塩の言葉のまま、暗示にかかつたやうにとば/\と田圃道を歩き出し た。              いくたび  だが、これが別れと思つて幾度か平八郎の方を振返つたが、無論声は 出せなかつた。  平八郎も同じ思ひで、夜の闇に吸はれてゆく瀬田の姿を見送つた。  ――とう/\見えなくなつた。  平八郎はスツクと立上ると、焚火の跡を踏み消して、格之助と共に、 又降り出した雨の中を、闇に紛れて信貴越の間道へと志した。



瀬田済之助












渡辺良左衛門









































































































































「御触」
その2
「人相書」
 


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