「大塩の乱関係論文集」目次
東亜堂書房 1910
◇禁転載◇
附録 (二十二)檄文塩逆述巻十一 | 改 訂 版 | |||
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四海こんきういたし候はゝ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさ
めしめは災害并至と、昔の聖人深く天下後世人の君人の臣たる者
を御誡被置候ゆヘ、
東照神君にも、鰥寡孤独におひて尤あはれみを加ふへくは是仁政
之基と被仰置候、然ルに茲二百四五十年太平之間に、追々上たる
人驕奢とておこりを極、太切之政事に携候諸役人とも、賄賂を公
に授受とて贈貰いたし、奥向女中之因縁を以、道徳仁義をもなき
拙き身分にて、立身重き役に経上り、一人一家を肥し候工夫而已
ニ智術を運し、其領分知行所之民百姓共へ過分之用金申付、是迄
年貢諸役の甚しき苦む上江、右之通無躰之儀を申渡、追々入用か
さみ候ゆへ四海の困窮と相成候付、人々上を怨さるものなき様に
成行候得共、江戸表より諸国一同右之風儀に落入、
天子は足利家已来別而御隠居御同様、賞罰之柄を御失ひに付、下
民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方なき様に乱候付、人々之怨気
天に通シ、年々地震火災山も崩水も溢るより外、色々様々の天災
流行、終に五穀飢饉に相成候、是皆天より深く御誡之有かたき御
告に候へとも、一向上たる人々心も付ず、猶小人奸者之輩太切之
政を執行、只下を悩し金米を取たてる手段斗に打懸り、実以小前
百姓共のなんきを、吾等如きもの草の陰より常に察し悲候得とも、
湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなけれバ、徒に蟄居いた
し候処、此節米価弥高直に相成、大坂之奉行并諸役人とも万物一
体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、
天子御在所之京都へは廻米之世話も不致而已ならす、五升一斗位
之米を買に下り候もの共を召捕抔いたし、実に、昔葛伯といふ大
名其農人の弁当を持運ひ候小児を殺候も同様、言語道断、何れの
土地にても、人民は徳川家御支配之ものに相違なき処、如此隔を
(手脱カ)
付候は、全奉行等之不仁にて、其上勝我儘之触書等を度々差出し、
大坂市中游民斗を太切に心得候者、前にも申通道徳仁義を不存拙
き身故にて、甚以厚ケ間敷不届之至、且三都之内大坂之金持共年
来諸大名へかし付候利徳之金銀并扶持米等を莫大に掠取、未曾有
之有福に暮し、丁人之身を以、大名之家老用人格等に被取用、又
は自己之田畑新田等を夥しく所持、何に不足なく暮し、此節の天
災天罰を見なから畏も不致、餓死之貧人乞食をも敢而不救、其身
は膏梁之味とて結搆之物を食ひ、妾宅等へ入込、或は揚屋茶屋へ
大名之家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、此
(河原者)
難渋の時節に 大塩乱に関する書にして此檄文を載せざるはなし、然れど も試に数書を取つて対校すれば、異同紛々として底止する 所を知らず、檄文の真本は未だ之を見ずと雖も、塩逆述巻 十一に載するものは其影写なるべきこと疑なきを以て之を 採録す、 |
四海こんきういたし候はゝ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさ
めしめは災害并至と、昔の聖人深く天下後世人の君人の臣たる者
を御誡被置候ゆヘ、
東照神君にも、鰥寡孤独におひて尤あはれみを加ふへくは是仁政
之基と被仰置候。然ルに茲二百四五十年太平之間に、追々上たる
人驕奢とておこりを極、太切之政事に携候諸役人とも、賄賂を公
に授受とて贈貰いたし、奥向女中之因縁を以、道徳仁義をもなき
拙き身分にて立身重き役に経上り、一人一家を肥し候工夫而已に
智術を運し、其領分知行所之民百姓共へ過分の用金申付、是迄年
貢諸役の甚しき苦む上え、右之通無躰之儀を申渡、追々入用かさ
み候ゆへ四海の困窮と相成候付、人々上を怨さるものなき様に成
行候得共、江戸表より諸国一同右之風儀に落入、
天子は足利家已来別て御隠居御同様、賞罰之柄を御失ひに付、下
民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方なき様に乱候付、人々の怨気
天に通シ、年々地震火災山も崩水も溢るより外、色々様々の天災
流行、終に五穀飢饉に相成候、是皆天より深く御誡の有かたき御
告に候へとも、一向上たる人々心も付ず、猶小人奸者之輩太切の
政を執行、只下を悩し金米を取たてる手段斗に打懸り、実以小前
百姓共のなんきを、吾等如きもの草の陰より常に察し悲候得とも、
湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒に蟄居いた
し候処、此節米価弥高直に相成、大坂の奉行并諸役人とも万物一
体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、
天子御在所の京都へは廻米の世話も不致而已ならず、五升一斗位
の米を買に下り候もの共を召捕抔いたし、実に昔葛伯といふ大名
其農人の弁当を持運ひ候小児を殺候も同様、言語道断、何れの土
地にても、人民は 徳川家御支配のものに相違なき処、如此隔を
付候は、全奉行等の不仁にて、其上勝手我儘の触書等を度々差出
し、大坂市中游民斗を太切に心得候は、前にも申通、道徳仁義を
不存拙き身故にて、甚以厚ケ間敷不届之至、且三都の内大坂の金
持共年来諸大名へかし付候利徳の金銀并扶持米等を莫大に掠取、
未曾有の有福に暮し、丁人之身を以大名の家老用人格等に被取用、
又は自己の田畑新田等を夥しく所持、何に不足なく暮し、此節の
天災天罰を見なから畏も不致、餓死の貧人乞食をも敢て不救、其
身は膏梁の味とて結搆の物を食ひ、妾宅等へ入込、或は揚屋茶屋
へ大名之家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、
此難渋の時節に絹服をまとひ候かわらものを妓女と共に迎ひ、平
生同様に游楽に耽候は何等の事哉、紂王長夜の酒盛も同事、其所
の奉行諸役人手に握居候政を以、右のもの共を取〆、下民を救候
義も難出来日々堂島相場斗をいしり事いたし、実に禄盗にて、決
て天道聖人の御心に難叶御赦しなき事に候。蟄居の我等最早堪忍
難成、湯武の勢孔孟の徳はなけれ共、無拠天下のためと存、血族
の禍をおかし、此度有志のものと申合、下民を悩し苦〆候諸役人
を先誅伐いたし、引続き驕に長し居候大坂市中金持の丁人共を誅
戮およひ可申候間、右の者共穴蔵に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内
に隠置候俵米、夫々分散配当いたし遣候間、摂河泉播之内田畑所
持不致もの、たとへ所持いたし候共、父母妻子家内の養方難出来
程の難渋者へは、右金米等取らせ遣候間、いつにても大坂市中に
騒動起り候と聞伝へ候はゝ、里数を不厭一刻も早く大坂へ向駈可
参候。面々へ右米金を分け遣し可申候。鉅橋鹿産の金粟を下民へ
被与候遺意にて、当時の飢饉難義を相救遣ハし、若又其内器量才
力等有之者には夫々取立、無道之者共を征伐いたし候軍役にも遣
ひ申へく候。必一揆蜂起の企とは違ひ、追々年貢諸役に至迄軽くい
たし、都而中興
神武帝御政道の通、寛仁大度の取扱にいたし遣、年来驕奢淫逸の
風俗を一洗相改、質素に立戻り、四海万民いつ迄も
天恩を難有存、父母妻子を被養、生前の地獄を救ひ、死後の極楽
成仏を眼前に見せ遣し、尭舜
天照皇太神の時代に復シかたく共、中興之気象恢復とて立戻り申
へく候。此書付村々ヘ一々しらせ度候へとも数多の事ニ付、最寄
の人家多候大村之神殿え張付置候間、大坂 版行摺の檄文を見ようと多年心掛けたが、漸く大正九年に 至り石崎東国氏著大塩平八郎伝中に始めてそのコロタイプ 版を見ることを得た。但しその出所・用紙・寸法・枚数等 について何等の説明の無いのは遺憾千万である。 |
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