故参の門人
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前に述べたる如く、文政八年正月には中斎に既に若干の門人が
あつたものと想像されるが、門人簿が現存して居無いため、彼
らの氏名や入門の年月を明に知ることが出来ぬ、評定所の吟味
書類を通覧すると、摂州東成郡般若寺村庄屋忠兵衛・弓奉行組
同心竹上万太郎・東組同心平山助次郎・同庄司義左衛門・河州
茨田郡守口町百姓孝右衛門五人は文政八年又は其以前の門人と
あるが、彼等は孰れも大塩乱に与した者で、大塩乱に与せぬ門
人は、新旧を問はず甚だ不明である、忠兵衛の申口に弐拾七八
年前より中斎儒学の門人に為つたとあるが、さすれば文化七八
年の入門で、門人の忠兵衛が十四五歳、先生の中斎が十七八歳、
これで儼然たる師弟の関係を結んだとは思はれぬ、況んや中斎
が年二十を踰えて始めて学に志したことは、一斎に与へたる尺
牘にに明言されたるに於てをやである、彼等は少年の時より相
知の間柄で、其後師弟の関係を結んだものと解するのが穏当で
あらう、増補孝経彙註の参訂者として巻末にある受業生の氏名
は左の十三名で姓名の右肩に▲を附したは大塩乱に荷担した者
である。
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中斎は何時から門人を取立てたか。評定所の吟味書類によると、
橋本忠兵衛は廿七八年前から中斎儒学の門人に為つたとあるが、
さすれば文化七八年の入門で、門人の忠兵衛が十四五歳、先生の
中斎が十七、八歳、これで儼然たる師弟の関係を結んだとは思は
れぬ。況んや中斎が年二十を踰えて始めて学に志したことは、附
録(三)に明言されて居る。思ふに彼等は少年の時から相識の間
柄であり、長ずるに及んで師弟の関係を結んだものと解するのが
穏当であらう。その外竹上万太郎は二十四五年以前、平山助次郎
は文政六年以前、庄司義左衛門は文政七年に門人になつたとある。
前に述べた通り、文政八年正月には洗心洞入学盟誓が規定せられ、
学堂東西の掲示が出来た位だから、その以前既に若干の門人があ
つたものと見て宜からう。尤も忠兵衛等四人は大塩乱に与した者
で、大塩乱に与せぬ門人は新旧を問はず甚だ不明である。門人簿
は必ず洗心洞にあつたと思ふが現存して居らぬ。よつて先づ増補
孝経彙註の参訂者として巻末にある受業生十三名から始めよう。
姓名の右肩に▲を附したは大塩乱に荷担した者である。
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