Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.3.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その90

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  六 門人 (1)
 改 訂 版


故参の門人

前に述べたる如く、文政八年正月には中斎に既に若干の門人が あつたものと想像されるが、門人簿が現存して居無いため、彼 らの氏名や入門の年月を明に知ることが出来ぬ、評定所の吟味 書類を通覧すると、摂州東成郡般若寺村庄屋忠兵衛・弓奉行組 同心竹上万太郎・東組同心平山助次郎・同庄司義左衛門・河州 茨田郡守口町百姓孝右衛門五人は文政八年又は其以前の門人と あるが、彼等は孰れも大塩乱に与した者で、大塩乱に与せぬ門 人は、新旧を問はず甚だ不明である、忠兵衛の申口に弐拾七八 年前より中斎儒学の門人に為つたとあるが、さすれば文化七八 年の入門で、門人の忠兵衛が十四五歳、先生の中斎が十七八歳、 これで儼然たる師弟の関係を結んだとは思はれぬ、況んや中斎 が年二十を踰えて始めて学に志したことは、一斎に与へたる尺 牘にに明言されたるに於てをやである、彼等は少年の時より相 知の間柄で、其後師弟の関係を結んだものと解するのが穏当で あらう、増補孝経彙註の参訂者として巻末にある受業生の氏名 は左の十三名で姓名の右肩に▲を附したは大塩乱に荷担した者 である。

 中斎は何時から門人を取立てたか。評定所の吟味書類によると、 橋本忠兵衛は廿七八年前から中斎儒学の門人に為つたとあるが、 さすれば文化七八年の入門で、門人の忠兵衛が十四五歳、先生の 中斎が十七、八歳、これで儼然たる師弟の関係を結んだとは思は れぬ。況んや中斎が年二十を踰えて始めて学に志したことは、附 録(三)に明言されて居る。思ふに彼等は少年の時から相識の間 柄であり、長ずるに及んで師弟の関係を結んだものと解するのが 穏当であらう。その外竹上万太郎は二十四五年以前、平山助次郎 は文政六年以前、庄司義左衛門は文政七年に門人になつたとある。 前に述べた通り、文政八年正月には洗心洞入学盟誓が規定せられ、 学堂東西の掲示が出来た位だから、その以前既に若干の門人があ つたものと見て宜からう。尤も忠兵衛等四人は大塩乱に与した者 で、大塩乱に与せぬ門人は新旧を問はず甚だ不明である。門人簿 は必ず洗心洞にあつたと思ふが現存して居らぬ。よつて先づ増補 孝経彙註の参訂者として巻末にある受業生十三名から始めよう。 姓名の右肩に▲を附したは大塩乱に荷担した者である。


「大塩平八郎」目次2/ その89/その91

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